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yuccalina

Author:yuccalina
自閉症の息子(14才)と、エンジニアの夫との3人暮らしのアラフィー主婦です。45才でヨガ指導者スクールを卒業し、現在地元で極々細やかな教室を開催。

一方、トランシルヴァニア(カロタセグ地方)の伝統刺繍、イーラーショシュのステッチを用いた雑貨『Yuccalina Erdő=ユッカリーナ・エルドゥ』の制作も行っています。

ミンネ・ギャラリーにて作品展示中。

ブログでは主にハンドメイド、ガーデニングに加え、10代から親しんできたロック音楽に、映画、本等について綴っています。

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ユッカリーナのヨガ的雑記帳


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2012/01/17 13:46 yuccalina

パティ・スミス「Just Kids」その(8)‐最終回

パンクロックのゴッドマザーと呼ばれるパティ・スミスが、エイズで早世した写真家ロバート・メイプルソープとの思い出を綴った自叙伝を紹介してきましたが、今回が最終回です。最終章「Holding Hands with Gods」を一気に行きますので、長尺になりそうです。

Just KidsJust Kids
(2012/01/01)
Patti Smith

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前回のサードアルバムを発表した1978年から、話は一気に1986年まで下ります。

パティは1979年の春、元MC5のギタリスト、フレッド・ソニック・スミスと暮らし始めそのまま結婚、音楽活動も停止し、彼の故郷デトロイトへ。息子のジャクソンを出産し主婦業に専念していた彼女も、1986年の秋、夫と共にいよいよ音楽活動を再開。丁度娘のジェシーを身籠った頃でもあった。後に「ドリーム・オブ・ライフ」として発表される新しいアルバムのジャケットを、「ロバートに撮ってもらったら」と提案したのはフレッドだった。暫く連絡をとっていなかった彼とコンタクトしようという矢先、パティの友人から、悪い知らせが届いた。エイズのキャリアだったロバートが、肺炎で入院中であると。パティは状況を聞くため、ロバートの恋人サム・ワグスタッフに電話し、返ってきた答にまた衝撃を受けた。「ロバートは具合が悪いが、私ほどではない」。同じくエイズ・キャリアのサムは、既にロバート以上に体調不良を繰り返していた。「会いに行くわ」とパティは約束し電話を切った。

暫くしてロバートが快復し退院すると直ぐに、パティはフレッド、ジャクソンと一緒にニューヨークへ。今度はサムが入院中で、かなり深刻な状態だった。パティとフレッドは彼の枕元で「子守唄」を歌ってあげたという。それは2才の息子ジャクソンの為に書いた歌だった。この「ザ・ジャクソン・ソング」は後にアルバム「ドリーム・オブ・ライフ」に収録された。ちなみに、ここから先に出てくる歌は全て、同アルバムの収録曲になる。

明けて1987年1月14日、サム・ワグスタッフが逝去。気持ちを打ち砕かれたロバートを慰める為、パティがサムの思い出を綴った詞にフレッドが曲をつけたのが、「パース・ザット・クロス」だった。サムに続き、同年2月22日、ロバートが敬愛するアンディ・ウォーホルがこの世を去った。丁度、レコーディングでニューヨークを再訪していたパティは、アンディに捧げる歌として、「アップ・ゼア・ダウン・ゼア」を録音した。当時彼女は妊娠5ヶ月、お腹の子供は動き始めていた。

その後、ロバートがロサンゼルスに住む弟のエドワードを訪れる際に、パティ逹は再び集まった。アルバム製作の合間に、ジャケット写真を撮る約束であった。この時、既にロバートの容態は思わしくなく、青白い手でエネルギーを絞り出すかのように、パティと向き合った。太陽の光の元、彼女は、新しい命を宿した自分が、死に行く身である彼と向かい合う事を皮肉に感じながらも、今生きているロバートのありのままを、しっかりと見据えたのだという。確かにジャケットの彼女の陽光が写り込んだ視線は、真っ直ぐで力強いが優しさも感じられる、素晴らしい写真ではないだろうか。三つ編みにした髪は、メキシコの画家フリーダ・カーロへのオマージュだそうだが、フリーダに関しては、後程詳しく触れたいと思う。

ドリーム・オブ・ライフ(紙ジャケット仕様)ドリーム・オブ・ライフ(紙ジャケット仕様)
(2009/07/15)
パティ・スミス

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ジャケットの撮影が終了後、その日の夜に「ザ・ジャクソン・ソング」のレコーディングが行われ、ロバートも同席する事になった。病床のサム・ワグスタッフにも歌ったこの曲を、コントロールルームのカウチに腰かけたロバートが見守る中で、パティは歌い上げた。彼女のパートが終わり、ピアノのリチャード・ソールがエンディング・コードを弾き始めた時、彼女がふとコントロールルームに目をやると、ロバートはカウチに横たわり眠りに落ちていた。そして、その隣には、啜り泣きながら彼を見守り立ち尽くすフレッドの姿があった。



1987年6月27日、娘のジェシー・パリス・スミス誕生。ミドルネームは、このブログでも散々書いてきたが「フランス大好き」なパティらしい。因みに彼女は2005年、フランスの文化芸術勲章「コマンドール賞」(北野武監督ももらいましたね)を授与されている。

同年11月4日、ロバートの41回目の誕生日を祝う場に、パティ一家も同席した。延期になっていたアルバムを完成させる為のニューヨーク行きでもあった。パーティーの朝、彼女は滞在していたメイフラワー・ホテルで机に向かい、ロバートの為に「ワイルド・リーヴス」(オリジナル盤には未収録だったが、現在では追加されている)の歌詞を書き上げたが、彼に渡す事は出来なかった。パティはロバートに、“永久不滅の歌”を送りたいと思って書いたものの、そう思う事で逆に死を招きそうな意識が生まれてしまったのだ。数日後、ロバートはシングル「ピープル・ハヴ・ザ・パワー」(以下PHTPと略)のジャケットとなるポートレイトを撮影。彼女はアルバム・ジャケットと同様、髪を三つ編みにし、フレッドのフライト・ジャケットを羽織った。その写真を見たフレッドは一言、「どうしてだか分からないけど、この写真はロバートに似ているね」。

<「People Have The Power」のシングルジャケット>
People_Have_the_Power_-_Patti_Smith.jpg

<確かにこのセルフポートレイトなんか雰囲気が似てるかも?>
patti2_convert_20120117151333.jpg

ここで、本には記述されていないが補足しておく。PHTPはパティがデトロイト美術館で見たメキシコの画家、ディエゴ・リヴェラの絵にインスパイアされて書いた歌だ。リヴェラは1920年代から「民衆の為の芸術」を目指した壁画運動の中心となり、妻のフリーダ・カーロと共に政治的存在でもあった。そして、インディオの血を引くフリーダは、髪を三つ編みにしアップに纏めた自画像や写真が数多く残されている。パッと見は同じ髪型ではないが、パティにとっては髪を編む行為自体が、フリーダへのオマージュだったと思われる。そして、パティ自身も政治的発言を厭わない覚悟があったのだろう。PHTPのプロモーション・ビデオには度々リヴェラやフリーダ・カーロ風の絵が挿入されていて、拳のアップ等は、今にして思えば、殆どプロパガンダアートである。事実、このPHTPは後に反イラク戦争や反ブッシュキャンペーンのプロテストソングとして歌われ、ブルース・スプリングスティーンにもカヴァーされた、非常に政治色の濃い作品なのだ。

<フリーダ・カーロのポートレイト(左)と自画像‐Taschen社刊のバイオグラフィーより>
patti3_convert_20120116205628.jpg



ところで、「ドリーム・オブ・ライフ」のアルバムレヴューは、いつもの通り、ロックマニア・フレさんのページへジャンプしてください。
Patti Smith - Dream of Life 「ロック好きの行き着く先は・・・」

その後、パティは家族と共に何度か、ニューヨークとデトロイトを往復した。仕事の為と、ロバートを見舞う為に。1989年2月の半ばに病院を訪ねたのが最後となった。「僕は死ぬんだ。辛いよ。」と言う彼を見て、パティの目に涙が溢れだした。この時初めて、「彼は本当に死んでしまうんだ」と悟ったのだ。パティの訪問から数週間後の1989年3月9日、ロバート・メイプルソープ逝去。彼女は暫くの間、彼の遺品に取り憑かれてしまったそうだ。その中の幾つかは、かつては二人の共有物でもあった。机と椅子はクリスティーズで競売にかけられることが決まっていた。知らない人間の手に渡るのが、彼女には堪えられなかった。勿論、オークションで入札する道もあったが、パティはそうしなかった。何故なら、こんな風に何かに取り憑かれた時、ロバートならきっとこう言うだろう、「僕はワガママなクソ野郎だから、手に入らないものは、誰の手にも渡したくないんだ」と、彼女の頭に過ったのだ。机と椅子は失ったが、彼女の手元には、ロバートの髪の毛一絃と、一握りの遺骨、箱一杯の手紙の束、彼が彩色を施した山羊皮のタンバリン(その(2)で紹介したもの)、そしてスミレ色の紙に包まれた、スミレの飾りがついたアラブ風のネックレス。それはミケランジェロを愛した少年が、パティに授けたものだった。

本編に関しては以上で終了ですが、ここでパティとロバートにまつわる至極私的なエピソードを紹介させて戴きます。中学生の頃からパティのファンだった私は、勿論ロバートの写真のファンでもありました。彼がエイズであった事も、マスメディアを通して知っていましたので、新聞に訃報が載った時は「とうとう来てしまったか」の思いがありました。当時私は24才、若気のいたりと言うのでしょうか、何故か「パティにお悔やみの手紙を送ろう」と思い立ち、拙い英文を彼女に送ったのでした。宛先は当時の「ドリーム・オブ・ライフ」のアルバムジャケットに、ファンメール用の私書箱が記載されていました。内容は詳しく覚えていませんが、ロバートの写真が好きだった事、友達を失ったパティがさぞや悲しい思いでいることでしょう、みたいな事だったと思います。私にとって初めて有名人に書いたファンレターでした。

送ったことだけで満足し、当然、返事など夢にも思っていなかった私の元に、数ヵ月後、エアメールが届きました。丁寧に手書きされた封筒の中から、ロバートのユリの写真を使ったポストカードが出てきました。そして、その裏面には短いながらも手書きのメッセージが。

<パティから届いたポストカード。裏面(右)に手書きのメッセージが、、>patti8.jpg

「ロバートの事を思ってくれてありがとう。日本のファンがこんなに気にしてくれて、彼も喜ぶことでしょう」‐パティ

このカードを受け取った時から、私にとってパティがより特別な、敬愛すべき女性となりました。この「Just Kids」を読み終えた今、彼女の素晴らしさを再確認出来てとても嬉しい限りです。アルバム「ドリーム・オブ・ライフ」が発表されたのは1988年の6月。今思えば、彼女が生まれいずる新しい命と、死に行く命の交差を目の当たりにしながら、作り上げた作品だったのです。それを思うと、アルバムタイトルにもまた違った響きがあり、感慨深いものがあります。

最後になりますが、「2人のストーリーをいつか本に書くと、生前ロバートと約束していた」と、後書きにありましたが、十分に約束を果たしたことになりますね。この「Just Kids」は2010年にアメリカで発表され、その年の「全米図書賞」に選ばれました。日本語版の出版が待たれるところです。

(了)
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タグ: パティ・スミス NYパンク

テーマ:USパンク - ジャンル:音楽

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Comment
読ませてくれる記事でした♪
そして最後の直筆はがきに感動です。
そりゃもう特別な人になりますね。
その原動力だったか…。
またじっくり聴いてみますこのアルバム。
いつもながらリンクに感謝です。
> またじっくり聴いてみますこのアルバム。

そう思って頂けて嬉しいです。いつもコメントありがとうございました。


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