プロフィール

yuccalina

Author:yuccalina
自閉症の息子(14才)と、エンジニアの夫との3人暮らしのアラフィー主婦です。45才でヨガ指導者スクールを卒業し、現在地元で極々細やかな教室を開催。

一方、トランシルヴァニア(カロタセグ地方)の伝統刺繍、イーラーショシュのステッチを用いた雑貨『Yuccalina Erdő=ユッカリーナ・エルドゥ』の制作も行っています。

ミンネ・ギャラリーにて作品展示中。

ブログでは主にハンドメイド、ガーデニングに加え、10代から親しんできたロック音楽に、映画、本等について綴っています。

月別アーカイブ
リンク

ユッカリーナのヨガ的雑記帳


--/--/-- --:-- yuccalina

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2011/12/20 12:32 yuccalina

パティ・スミス「Just Kids」その(6)

パティ・スミスが亡き盟友ロバート・メイプルソープとの思い出を綴った自叙伝の第6回目です。今回からの新しい章「Separate Ways Together」も、2回に分けて紹介したいと思います。

伝説のチェルシーホテルを後にして、別々に暮らし始めた2人。パティは新しい恋人、ブルー・オイスター・カルトのアラン・レイニアと暮らし始め、ロバートは恋人でパトロンのサム・ワグスタッフの庇護のもと、写真家の道を歩き始めた。ロバートのSMやホモ・セクシャルをテーマにした写真に関して、パティは「彼がどんどん暗く危険な世界に行ってしまう様で心配だった」らしいが、彼女の詩集の表紙は、ロバートによるポートレイトで飾られた。

patti12.jpg

1973年発表の「Witt」が評価され、次にアルチュール・ランボーをテーマにした作品を書くため、同年10月にフランスを再訪した。既に詩集の売上げで食べていける身となったパティ。かつて妹と安チケットで行った貧乏旅行とは違い、ランボー縁りのホテルに泊まったり、出身地のシャルルヴィルへも足を運び、ランボー博物館を訪れた。そしてニューヨークへ帰る前に、パリの墓地へ。ジム・モリソンのお墓の前で佇んでいた彼女に、フランス人女性が罵声を浴びせたと言う。「アメリカ人め!」「なんで自国の詩人をもっと敬えなかったの?」と。ジム・モリソンがアメリカでは正当に評価されてなかった、という認識が、フランスではあったのだろうか。

ニューヨークに戻ったパティは、ロックンロールとランボーの融合を目指し、積極的にライヴ活動を始める。レニー・ケイのギターをバックに詩の朗読パフォーマンスでも、収入を得るようになり、1973年の大晦日は、マックス・カンサス・シティでフィル・オクスのオープニング・アクトを務めた。

明けて1974年3月、イースターの頃、マックスと並び数々のアーティスト達を世に送り出した伝説のライヴハウスCBGBに、パティはレニー・ケイを伴って足を踏み入れた。詩人仲間だったリチャード・ヘルが当時組んでいたバンド、テレヴィジョンを見るためだった。後に恋人となるトム・ヴァーレインよりも先に、リチャード・ヘルと知り合いだったとは、ちょっと意外な気がした。余談だが、リチャード・ヘルのビリビリ切り刻まれたTシャツスタイルが、後のロンドンパンクファッションの原型だったのは有名な話だ。セックス・ピストルズの仕掛人、マルコム・マクラレンがニューヨークのライヴハウスでリチャード・ヘルを見て、「これだ!」と閃いたとか何とか。

話を戻すと、CBGBでテレヴィジョンのライヴを見たパティは、トム・ヴァーレインのギタープレイに魅了された。彼はパティの育ったニュージャージー出身という事もあり、直ぐに仲良くなったようだが、何よりも文学の趣味が同じだったのが大きかった。ヴァーレインとはヴェルレーヌの英語読みで本名ではなく、ボブ・ディランに倣って詩人の名を頂いたものだ。ランボー好きのパティとは、正に出会うべき人だったと思う。

<リチャード・ヘルのVoidoids, Heartbreakers時代のトラックが収録されたカセット>
patti11.jpg

<テレヴィジョン伝説のライヴ音源のカセット。現在CD化されている。>
patti10.jpg

当時からテレヴィジョンのレパートリーだった名曲「Marquee Moon」は以前このブログでも紹介(こちらのページ)したが、アルバム・レヴューは何時もの通り、フレさんのページへどうぞ。

Television - Marquee Moon 「ロック好きの行き着く先は・・・」

1974年4月15日のパティ・ハースト誘拐事件に触発され、彼女に捧げた詩を書いたパティ。ジミ・ヘンドリックスへのオマージュとして、その詩を「ヘイ・ジョー」のカヴァーとしてレコーディングする決心をする。この自主製作盤シングルレコードは、パティの憧れだったジミが作ったスタジオ「エレクトリック・レディ」で録音された。製作の費用を持ってくれたのはロバートとあったが、元を辿れば彼のパトロン、サム・ワグスタッフのお金だった、ってことだろう。

パティとレニー・ケイ、既に第3のメンバーとして迎えられていたピアノのリチャード・ソール、そしてもう1人のギタリストとして、トム・ヴァーレインを加えた4人で、8トラックの小さなBスタジオに入った。パティはマイクに向い「ハーイ、ジミ」と囁いた。

リチャードとレニー、パティが一緒に演奏し歌った後で、トムのソロギターを被せた。最後にパティが初めて叩いたバスドラムの音を加え、「ヘイ・ジョー」を録り終えると、まだ時間が15分だけ残っていた。パティは「ピス・ファクトリー」を試しに録る事にした。この詩は、ランボーの詩集「イリュミナシオン」を心の拠り所に、故郷ニュージャージーの工場で辛い日々を送っていたパティが、ニューヨークに脱出し、自分を救済すべく書いた、個人的に神聖な意味を持った詩だった。リチャード・ソールのピアノをバックに、レニーが即興でギターを加えて完成した。

この自主製作盤は1500枚プレスされ、書店やレコード店で販売された。いつしか評判を呼び、マックスの店内にあったジュークボックスで、頻繁にリクエストされる様になったが、A面の「ヘイ・ジョー」よりもB面の「ピス・ファクトリー」の方が人気になっていた。

<「Piss Factory」ロバートによる彼女のポートレイトが多数出てきます>


<Piss Factory他のレア・トラックも収められたベスト盤>
ランド(1975-2002)~グレイテスト・ヒッツランド(1975-2002)~グレイテスト・ヒッツ
(2002/04/24)
パティ・スミス

商品詳細を見る


今回はこの辺で止めておきます。次回はメジャーデビューの話になりますが、先にネタばらししちゃうと、ヴェルヴェッツの話は殆どゼロです。この本で私はかなり認識を改めました。今までは、パティにとってヴェルヴェッツの影響はもっと大きなものと思い込んでましたが、頻繁に出てきたアーティスト名はボブ・ディランと4人のJ、ジム・モリソン、ジミヘン、ジャニスにブライアン・ジョーンズでした。そして、ランボーを筆頭としたフランスの詩人や作家達。彼女を作り上げてきた様々な要素が分かり、中々エキサイティングです。

といったところで、その(7)に続く。
関連記事
スポンサーサイト

タグ: パティ・スミス NYパンク

テーマ:お気に入りアーティスト - ジャンル:音楽

「チカップ美恵子の世界」‐カムイにいだかれたアイヌの文様 | ホーム | 様式美と型破り‐ハマカーンから狂言、ベジャールの話まで
Comment


Trackback
この記事のトラックバックURL
http://notarinotariyoga.blog.fc2.com/tb.php/247-e974b1f3
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
ご訪問ありがとうございます
最新記事
最新コメント
カテゴリ
検索フォーム
最新トラックバック
ユーザータグ
フリーエリア
RSSリンクの表示
Web page translation
QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。