2011.11/24 [Thu]
パティ・スミス「Just Kids」その(4)
パンク・ロックのゴッドマザーと称されるパティ・スミスが、盟友であった写真家の故ロバート・メイプルソープとの思い出を綴った自叙伝の4回目です。気になったエピソードを、どんどんネタバラシしてます。
「Hotel Chelsea」の章に入って3回目ですが、今回も注目すべき人々との出会いがあります。やっぱこの本で一番キモになる章だと思うので、もう1つ刻んで、次回までこの章を持ち越す事にしました。
先ず最初に、現在では脚本家より俳優としての方が有名なサム・シェパードの話から。彼をパティに紹介したのは、トッド・ラングレンで、ある日彼女をライヴに誘った。出演していたのは、ホーリー・モーダル・ラウンダーズ。当時、映画「イージー・ライダー」の挿入歌「バード・ソング」で知られていたグループで、ドラマーをしていたのがサムだった。彼はミュージシャンだけでなく、オフ・ブロードウェイの舞台で既にヒット作品を持つ劇作家でもあった。出会って直ぐに惹かれ合い、パティは彼が住むチェルシーの部屋に入り浸る様になったが、ロバートとサム・シェパードが仲良くなる事はなかった。サムが妻子持ちのくせにパティに手を出した為、ロバートは「ゾッとする」と、許せなかったらしいんだが、思わず「真面目かっ?」と突っ込みたくなっちゃったよ。だってロバートは乳首にピアスしたり、LSDでヘロヘロになったり、金欠になった時には、映画「真夜中カウボーイ」を真似て、同性愛相手の「立ちんぼ」したり、とかの話を読んだ後では、何か可笑しくてさー。でも「いつか捨てられるかもしれないよ」と、パティを気遣う気持ちは、兄弟愛に近い慈しみの気持ちがあったのよね。
さて、音楽雑誌でレコードのレビューを書く仕事もしていたパティには、「美術批評を書いていた後に詩人となったボードレール」(出たっ、パティのおフランス好き!)がひとつのモデルケースだったらしく、別に片手間のアルバイトではなかったようだ。彼女が敬愛するボブ・ディランのアルバム「ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム」のジャケットにロッテ・レーニャのレコードが写っていた事から、彼女は「ロッテが恋人の作曲家クルト・ワイルに与えた影響について書いてみたい」と提案し、受け入れられた。ちなみに、パティはロッテ・レーニャのみならず、芸術家にインスピレーションを与える女性への憧れが強かった様で、「ニューヨークへ出たのは芸術家の愛人になる為」というのは嘘ではなさそうだ。
<ロッテ・レーニャが歌うドイツ語版「マック・ザ・ナイフ>
話を戻すと、その評論を書いた縁で、彼女はローリングストーン誌のサンディ・パールマン(音楽評論家・プロデューサー)から沢山の音楽評論の本を貰って読んだ。その中で、とても感銘を受けたのが、後にギタリストとして、パティ・スミス・グループを結成するレニー・ケイであった。パティが感動したという評論は「ア・カペラ音楽」についてで、「彼の文章は知識の深さだけでなく慈愛に満ちていて、子供の頃に街中歌っていたR&B、スリー・パートでハモっていた自分のルーツが甦ってきた」そうだ。早速彼女は、レニーが店員として働いてたレコードショップ「ヴィレッジ・オールディーズ」へ会いに出かけた。そこで意気投合した2人が、お気に入りのレコードをかけながら、夜な夜な店で音楽談義をしたり、踊りまくっていたのは有名な話だ。
<1988年、レニー・ケイ来日時のチラシ。お酒を飲みながら彼のギターと歌に酔しれました。アンコールでは鮎川誠が飛び入りして、まるで兄弟みたいでした。>

<パティとの活動以外で重要な彼のお仕事。60年代のバンドを再評価し、編纂したナゲッツ・シリーズは私も愛聴してました。>
<多分唯一のソロ・アルバムで、私が一番好きな曲>
そんな折、ロバートは友人のジェラルド・マランガ(当時アンディ・ウォーホルの助手で映画にも出演していた、詩人で映像作家)が関わっていた「ポエトリー・プロジェクト」にパティを推薦した。彼女のターニングポイントで、ロバートは必ず重要な役割を果たしていたようだ。
詩人のアン・ウォルドマンが主催し、セントマークス教会で行われた詩の朗読会は、パティにとって歴史的な1ページとなった。1971年2月10日、ベルトルト・ブレヒトの誕生日であり、満月の夜だった。パティはブレヒトに敬意を表し「マック・ザ・ナイフ」(ブレヒトの「三文オペラ」の挿入歌、クルト・ワイル作曲、ロッテ・レーニャが歌った曲)を朗読し歌うところから始めた。
この会に出演が決まった時、トッド・ラングレンは「アグレッシヴにやりなよ!」とパティに黒の蛇革のブーツをプレゼントし、サム・シェパードは「音楽を加えてみたら」と助言してくれた為、彼女はレニー・ケイにギター演奏を頼んでいた。彼のギターをバックに読み上げられた「Oath」という詩は後に「グロリア」に使われて有名になった。
Jesus died for somebody's sin. But not mine.
キリストは誰かの罪のせいで死んだ。でも私のじゃない。
彼女の朗読は「弟アベルを殺したカイン」から「泥棒日記のジャン・ジュネ」まで、罪人に捧げられてもいた。その後、前回紹介した「Fire of Unknown Origin」の他、ロバートやサムに捧げた詩等を、レニーのギターをバックに読み上げたパティ。教会にエレキを持ち込む事に批判的で野次る人達もいたが、彼女の詩の師匠グレゴリー・コーソはご満悦だったし、大喝采で受け入れられた。朗読会後のレセプションパーティーでは、「アドレナリン出まくり調子に乗って、天狗になっちまった」というパティ。ロバートとジェラルド・マランガにお礼を言うのも忘れて、チヤホヤされて浮かれていたらしい。音楽誌クリームから詩集出版と、それに伴うロンドンとフィラデルフィアでの朗読会のオファーがあり、ブルー・スカイ・レコードのスティーヴ・ポールからレコード契約の申し出もあった。
<こんな動画もすぐ見られるとは良い世の中になったものだ。詳細は未確認だが、多分「Just Kids」出版を記念して再現された朗読会。パティは3:40頃に登場していて、本書の朗読もしていますが、その(2)で紹介した「アレン・ギンズバーグに美少年と勘違いされた」くだりを読んでいます。そして、最後には、レニーのギターで「グロリア」を歌ってます。>
それから、パティはスクリブナー書店の仕事を辞め、お金の余裕も出て、自由になってきたものの、自分の方向性はまだ定まっていなかった。そんな彼女に強い影響を与えたのが、前述のサム・シェパード。「ネイティヴ・アメリカン、スー族の戦士、クレージー・ホース」に傾倒したパティは、彼が愛馬の耳に施していたのと同じ「稲妻のタトゥー」を、自分の膝に入れることにしたが、サムはその場でもパティに寄り添っていた。そして彼は左手に三日月のタトゥーを入れた。
<言われてみなけりゃ、ただの折れ線にしか見えない?稲妻のタトゥー>

チェルシーのサムの部屋で、一緒に書き上げた台本で立った舞台が「Cowboy Mouth」。そこでパティは舞台で歌を歌う体験をし、サムからは「即興の秘技」を伝授されたという。間接的ではあるが、後に彼女の音楽活動に与えた影響は少なくなさそうだ。しかし、彼は舞台の3日目、「自分が思い描いてたものと違っていたから」と、妻子の元へ戻ってしまった。舞台は打ち切られ、彼女はレコード作りに専念せねばならなくなった。
サムが去り傷心の?パティは、レコード会社のスティーヴ・ポールから、詩のネタ作りの為か、他のミュージシャン達と一緒にメキシコ旅行に誘われる。ここでも「行くべきだ」と彼女に強く勧めたのはロバートだった。彼女はメキシコの画家ディエゴ・リベラのファンだったらしいが、当然その妻で画家のフリーダ・カーロ、そして2人の関係性にも惹かれていただろう。しかしメキシコでは「コーヒーを飲んでばかりで、詩は全然書けなかった」。そんな時、メキシコからロサンゼルスに向かう、嵐の中でのドライブ中に、カーラジオから聞こえてきたドアーズの曲「ライダース・オン・ザ・ストーム」(「LAウーマン」収録)に衝撃が走った。「私はいつの間にか忘れていたが、ジム・モリソンこそ、詩の世界とロックを融合させる道筋を、私に示してくれたのだ。」と。
ニューヨークに戻ったパティに届いたのは「ジム・モリソンがパリで変死」の悲報。彼女がジム・モリソンと邂逅することはなかった。1971年6月3日、奇しくもパティが愛したブライアン・ジョーンズの死と、同じ日であった。
その(5)に続く。
ボブ・ディランとドアーズのアルバム・レビューは、ロックマニア、フレさんのブログへどうぞ。ドアーズについては「ブレヒト&ワイル繋がり」で「アラバマ・ソング」が収録されたファーストアルバムをチョイスしてみました。
Bob Dylan - Bringing It All Back Home 「ロック好きの行き着く先は・・・」
The Doors - The Doors 「ロック好きの行き着く先は・・・」
![]() | Just Kids (2010/11/02) Patti Smith 商品詳細を見る |
「Hotel Chelsea」の章に入って3回目ですが、今回も注目すべき人々との出会いがあります。やっぱこの本で一番キモになる章だと思うので、もう1つ刻んで、次回までこの章を持ち越す事にしました。
先ず最初に、現在では脚本家より俳優としての方が有名なサム・シェパードの話から。彼をパティに紹介したのは、トッド・ラングレンで、ある日彼女をライヴに誘った。出演していたのは、ホーリー・モーダル・ラウンダーズ。当時、映画「イージー・ライダー」の挿入歌「バード・ソング」で知られていたグループで、ドラマーをしていたのがサムだった。彼はミュージシャンだけでなく、オフ・ブロードウェイの舞台で既にヒット作品を持つ劇作家でもあった。出会って直ぐに惹かれ合い、パティは彼が住むチェルシーの部屋に入り浸る様になったが、ロバートとサム・シェパードが仲良くなる事はなかった。サムが妻子持ちのくせにパティに手を出した為、ロバートは「ゾッとする」と、許せなかったらしいんだが、思わず「真面目かっ?」と突っ込みたくなっちゃったよ。だってロバートは乳首にピアスしたり、LSDでヘロヘロになったり、金欠になった時には、映画「真夜中カウボーイ」を真似て、同性愛相手の「立ちんぼ」したり、とかの話を読んだ後では、何か可笑しくてさー。でも「いつか捨てられるかもしれないよ」と、パティを気遣う気持ちは、兄弟愛に近い慈しみの気持ちがあったのよね。
さて、音楽雑誌でレコードのレビューを書く仕事もしていたパティには、「美術批評を書いていた後に詩人となったボードレール」(出たっ、パティのおフランス好き!)がひとつのモデルケースだったらしく、別に片手間のアルバイトではなかったようだ。彼女が敬愛するボブ・ディランのアルバム「ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム」のジャケットにロッテ・レーニャのレコードが写っていた事から、彼女は「ロッテが恋人の作曲家クルト・ワイルに与えた影響について書いてみたい」と提案し、受け入れられた。ちなみに、パティはロッテ・レーニャのみならず、芸術家にインスピレーションを与える女性への憧れが強かった様で、「ニューヨークへ出たのは芸術家の愛人になる為」というのは嘘ではなさそうだ。
<ロッテ・レーニャが歌うドイツ語版「マック・ザ・ナイフ>
話を戻すと、その評論を書いた縁で、彼女はローリングストーン誌のサンディ・パールマン(音楽評論家・プロデューサー)から沢山の音楽評論の本を貰って読んだ。その中で、とても感銘を受けたのが、後にギタリストとして、パティ・スミス・グループを結成するレニー・ケイであった。パティが感動したという評論は「ア・カペラ音楽」についてで、「彼の文章は知識の深さだけでなく慈愛に満ちていて、子供の頃に街中歌っていたR&B、スリー・パートでハモっていた自分のルーツが甦ってきた」そうだ。早速彼女は、レニーが店員として働いてたレコードショップ「ヴィレッジ・オールディーズ」へ会いに出かけた。そこで意気投合した2人が、お気に入りのレコードをかけながら、夜な夜な店で音楽談義をしたり、踊りまくっていたのは有名な話だ。
<1988年、レニー・ケイ来日時のチラシ。お酒を飲みながら彼のギターと歌に酔しれました。アンコールでは鮎川誠が飛び入りして、まるで兄弟みたいでした。>

<パティとの活動以外で重要な彼のお仕事。60年代のバンドを再評価し、編纂したナゲッツ・シリーズは私も愛聴してました。>
![]() | Nuggets: Original Artyfacts From First Psych (2006/06/20) Various Artists 商品詳細を見る |
<多分唯一のソロ・アルバムで、私が一番好きな曲>
そんな折、ロバートは友人のジェラルド・マランガ(当時アンディ・ウォーホルの助手で映画にも出演していた、詩人で映像作家)が関わっていた「ポエトリー・プロジェクト」にパティを推薦した。彼女のターニングポイントで、ロバートは必ず重要な役割を果たしていたようだ。
詩人のアン・ウォルドマンが主催し、セントマークス教会で行われた詩の朗読会は、パティにとって歴史的な1ページとなった。1971年2月10日、ベルトルト・ブレヒトの誕生日であり、満月の夜だった。パティはブレヒトに敬意を表し「マック・ザ・ナイフ」(ブレヒトの「三文オペラ」の挿入歌、クルト・ワイル作曲、ロッテ・レーニャが歌った曲)を朗読し歌うところから始めた。
この会に出演が決まった時、トッド・ラングレンは「アグレッシヴにやりなよ!」とパティに黒の蛇革のブーツをプレゼントし、サム・シェパードは「音楽を加えてみたら」と助言してくれた為、彼女はレニー・ケイにギター演奏を頼んでいた。彼のギターをバックに読み上げられた「Oath」という詩は後に「グロリア」に使われて有名になった。
Jesus died for somebody's sin. But not mine.
キリストは誰かの罪のせいで死んだ。でも私のじゃない。
彼女の朗読は「弟アベルを殺したカイン」から「泥棒日記のジャン・ジュネ」まで、罪人に捧げられてもいた。その後、前回紹介した「Fire of Unknown Origin」の他、ロバートやサムに捧げた詩等を、レニーのギターをバックに読み上げたパティ。教会にエレキを持ち込む事に批判的で野次る人達もいたが、彼女の詩の師匠グレゴリー・コーソはご満悦だったし、大喝采で受け入れられた。朗読会後のレセプションパーティーでは、「アドレナリン出まくり調子に乗って、天狗になっちまった」というパティ。ロバートとジェラルド・マランガにお礼を言うのも忘れて、チヤホヤされて浮かれていたらしい。音楽誌クリームから詩集出版と、それに伴うロンドンとフィラデルフィアでの朗読会のオファーがあり、ブルー・スカイ・レコードのスティーヴ・ポールからレコード契約の申し出もあった。
<こんな動画もすぐ見られるとは良い世の中になったものだ。詳細は未確認だが、多分「Just Kids」出版を記念して再現された朗読会。パティは3:40頃に登場していて、本書の朗読もしていますが、その(2)で紹介した「アレン・ギンズバーグに美少年と勘違いされた」くだりを読んでいます。そして、最後には、レニーのギターで「グロリア」を歌ってます。>
それから、パティはスクリブナー書店の仕事を辞め、お金の余裕も出て、自由になってきたものの、自分の方向性はまだ定まっていなかった。そんな彼女に強い影響を与えたのが、前述のサム・シェパード。「ネイティヴ・アメリカン、スー族の戦士、クレージー・ホース」に傾倒したパティは、彼が愛馬の耳に施していたのと同じ「稲妻のタトゥー」を、自分の膝に入れることにしたが、サムはその場でもパティに寄り添っていた。そして彼は左手に三日月のタトゥーを入れた。
<言われてみなけりゃ、ただの折れ線にしか見えない?稲妻のタトゥー>

チェルシーのサムの部屋で、一緒に書き上げた台本で立った舞台が「Cowboy Mouth」。そこでパティは舞台で歌を歌う体験をし、サムからは「即興の秘技」を伝授されたという。間接的ではあるが、後に彼女の音楽活動に与えた影響は少なくなさそうだ。しかし、彼は舞台の3日目、「自分が思い描いてたものと違っていたから」と、妻子の元へ戻ってしまった。舞台は打ち切られ、彼女はレコード作りに専念せねばならなくなった。
サムが去り傷心の?パティは、レコード会社のスティーヴ・ポールから、詩のネタ作りの為か、他のミュージシャン達と一緒にメキシコ旅行に誘われる。ここでも「行くべきだ」と彼女に強く勧めたのはロバートだった。彼女はメキシコの画家ディエゴ・リベラのファンだったらしいが、当然その妻で画家のフリーダ・カーロ、そして2人の関係性にも惹かれていただろう。しかしメキシコでは「コーヒーを飲んでばかりで、詩は全然書けなかった」。そんな時、メキシコからロサンゼルスに向かう、嵐の中でのドライブ中に、カーラジオから聞こえてきたドアーズの曲「ライダース・オン・ザ・ストーム」(「LAウーマン」収録)に衝撃が走った。「私はいつの間にか忘れていたが、ジム・モリソンこそ、詩の世界とロックを融合させる道筋を、私に示してくれたのだ。」と。
ニューヨークに戻ったパティに届いたのは「ジム・モリソンがパリで変死」の悲報。彼女がジム・モリソンと邂逅することはなかった。1971年6月3日、奇しくもパティが愛したブライアン・ジョーンズの死と、同じ日であった。
その(5)に続く。
ボブ・ディランとドアーズのアルバム・レビューは、ロックマニア、フレさんのブログへどうぞ。ドアーズについては「ブレヒト&ワイル繋がり」で「アラバマ・ソング」が収録されたファーストアルバムをチョイスしてみました。
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惹き込まれますね
あ〜、パティってそんなんだったのか〜と。分厚い本だとなかなか読む気にならないけど、こうして書かれていくとじっくりと情景を思い描きながら読める。まだ音楽と一体化するところまでは進んでないけどこれからも楽しみです。
いつも取り上げてくれて感謝感謝♪