2011.11/18 [Fri]
パティ・スミス「Just Kids」その(3)
パティ・スミスが写真家の故ロバート・メイプルソープに捧げた自叙伝「Just Kids」の第3回。私的に重要&ツボのエピソードを紹介して、ネタをバラしますので、ご注意ください。前回(記事はこちら)「Hotel Chelsea」の章が長すぎるので分割すると書きましたが、今回でも終わりそうにないので、都合3か4分割くらいになりそうです。何つーたって、ページ数の割に内容が濃すぎるんですよ。登場人物が凄すぎるんですもん!てな訳で、文学、アート系、演劇・映画関係(ウォーホル関連)の人々の話は、今回は殆ど割愛します。主にロック関連を主軸にしたいと思います。
アレン・ギンズバーグやグレゴリー・コーソ(ビートニク詩人、1930~2001)との出会いによって、詩人として多くを学んだり、芝居の舞台にも立ったり、文章を書くのが得意なのを生かして、音楽雑誌にレコードレヴューを書いたりしてたパティが、更に重要な人物と出逢った。彼の名はボブ・ニューワース。パティがロック・アーティストになるキッカケを作った張本人である。彼女がノートに書き溜めていた詩を読んだ彼は、「歌を書いてみると良い」と勧めたのだ。ニューワースはボブ・ディランの側近として知られ、彼自身もシンガーソングライターで、アルバムを複数残している。私は元ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのジョン・ケールとのコラボで、彼の名前を知ったのだが、あのジャニス・ジョプリンの名曲「メルセデス・ベンツ」の作者でもあった。ボブ・ディランとはまだ出逢っていないが、彼を通じて、パティはジャニスやジミ・ヘンドリックスと知り合う。ジャニスに歌を捧げたり、ジミが亡くなる前に、チェルシーの階段で交わした会話「スタジオで作りたいのは、Universal Language、"世界の共通言語”としての音楽」と語ったジミの話などが出てきた。そして、前回も登場したジョニー・ウインターがジャニスの死後、「Jコネクション」(Brian Jones, Jimi Hendrix, Janis Joplinが相次いで死亡した)話を始めて、「次は俺かもしれない」と怯えてるのをパティとロバートで宥めた、なんて話もあった。ちなみに、次のJはみなさんご存じかもしれませんが、Jim Morrisonっすね。ジョニー・ウインターは御年68才、まだご健在ですよ。
ところで、ジャニス・ジョプリンについては、またまたお世話になります、ロックマニア・フレさんのブログへジャンプしてください。下記の記事は映画のレヴューですが、「メルセデス・ベンツ」のアカペラの動画がアップされていたので選びました。ブログにはCDのレヴューやジミヘンも沢山ありますので、どうぞー。
Janis Joplin - Janis 「ロック好きの行く着く先は・・・」
ロバートはチェルシーの友人で映像作家のサンディー・デイレーからポラロイドカメラを借りて、パティのポートレイトを撮り始めるが、まだセルフポートレイトやゲイ向けの写真には向かっていない。もっぱらパティがアーティストになる為のサポート役に回っている感じだ。パティがボブ・ニューワースから「歌を書いてみたら」と勧められた時に、ロバートは真っ先に賛成した。「僕はキミの歌う歌が大好きなんだ。」と言い、彼女がノート書き溜めていた詩を、「もっと沢山の人達に聞かせるべきだ」と言った。パティはまだ自分がアーティストになれるのか、全く自信を持ってなかった様子だが、ロバートには確信があったらしい。そう言う意味で、やはり彼無くしてはロック詩人パティ・スミスは生まれなかったのかもしれないし、彼女もそれを伝えたくて、この本を書いたのかもと思った。ロバートが彼女に詩の朗読を勧めた事で、また1人のアーティストと出逢った。それが、ジム・キャロル(1949~2009)である。ジムが自身の青春時代を綴った「マンハッタン少年日記」は後に、ディカプリオ主演で映画「バスケットボール・ダイアリー」(1995年)にもなった。そして彼はパティの後を追うように、ジム・キャロル・バンドとしてアルバムもリリースしている。ここで面白かったのは、パティがジムへの恋心をハッキリ書いていた事だ。「彼を恋人にしたかった。でも、彼が私を愛していないと知っていた」と。後年、数々の男性達と浮名を流した彼女にも、そんな事があったのね。
<「People Who Died」(ファーストアルバム収録)はパティもライヴで歌う曲>
<パティをソデにした男のセカンドアルバムにはVUのSweet Janeのカヴァー有り>
ジャニスやジミ以外に、パティがボブ・ニューワースを介して出逢ったアーティストは名前が出てきただけでも、トム・パクストン、エリック・アンダーソン、ロジャー・マッギン、クリス・クリストファーソン等がいたが、もう1人記述しておきたいのがトッド・ラングレン。パティはボブに連れられ、フィルモア・イーストでクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングを見た。「CSN&Yは正直好みでなかったが、Neil YoungのOhioに感銘を受けた。アーティストの語り部としての役割を目の当たりした思いがあった」と語るパティ。そしてその後、ボブと一緒に彼女は、ザ・バンド「Stage Fright」のレコーディング立ち合う機会を得た。そこでエンジニアをしていたのがトッドである。彼とはUpper Darby(ペンシルヴァニア州・フィラデルフィアにある町)の出身である事から、直ぐに仲良しになった。パティの祖父母がUpper Darbyの出であったため「同じルーツ」、と親近感が強かったそうで、その後トッドから「今度Upper Darbyへ帰るんだけど、一緒に行く?」と誘われて、一緒に行き、彼の家族と会ったりもしている。この辺の話は、彼女の音楽への影響は感じられないが、「トッドは気取らない気さくな男」という私が持ってたイメージとピッタリで、つい嬉しくなってしまったエピソード。
<1988年の来日時、フレンドリーなトッド・ラングレンから頂いたサイン>

パティはボブ・ニューワースに勧められ、ロバートの応援も受けて徐々にロック・アーティストへの階段を上り始めた。少ない給料からやりくりしてマーテインのアコースティックギターを手に入れる。チューニングの仕方も分からず、チェルシーの知人にしてもらった。ボブ・ディランの曲をコピーしたり、何とか覚えたスリー・コードを弾きながら、生まれて初めて作った歌が「Fire of Unknown Origin」だ。後にブルー・オイスター・カルトの曲(オリジナルとは全く別モンのポップな曲で、ズッコケた)にも使われた歌詞だが、彼女自身の歌はシングル「フレデリック」のB面として発表された。最初は詩として書かれたものを、ギターのコードに乗せて読む事で出来上がっていった。ロバートとサンディの前て、初めて弾き語りした日の事が書かれていた。
多分パティはこのやり方で、これ以降も歌を作っていくのだろう。ファーストアルバム「ホーセス」に収録されたヴァン・モリソンの曲「グローリア」のカヴァーは、詩の朗読のようなオープニングで、この彼女のスタイルは1970年の時点で、既に出来上がっていたのかもしれない。
と言ったところで、今回はおしまいにします。
その(4)に続く。
アレン・ギンズバーグやグレゴリー・コーソ(ビートニク詩人、1930~2001)との出会いによって、詩人として多くを学んだり、芝居の舞台にも立ったり、文章を書くのが得意なのを生かして、音楽雑誌にレコードレヴューを書いたりしてたパティが、更に重要な人物と出逢った。彼の名はボブ・ニューワース。パティがロック・アーティストになるキッカケを作った張本人である。彼女がノートに書き溜めていた詩を読んだ彼は、「歌を書いてみると良い」と勧めたのだ。ニューワースはボブ・ディランの側近として知られ、彼自身もシンガーソングライターで、アルバムを複数残している。私は元ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのジョン・ケールとのコラボで、彼の名前を知ったのだが、あのジャニス・ジョプリンの名曲「メルセデス・ベンツ」の作者でもあった。ボブ・ディランとはまだ出逢っていないが、彼を通じて、パティはジャニスやジミ・ヘンドリックスと知り合う。ジャニスに歌を捧げたり、ジミが亡くなる前に、チェルシーの階段で交わした会話「スタジオで作りたいのは、Universal Language、"世界の共通言語”としての音楽」と語ったジミの話などが出てきた。そして、前回も登場したジョニー・ウインターがジャニスの死後、「Jコネクション」(Brian Jones, Jimi Hendrix, Janis Joplinが相次いで死亡した)話を始めて、「次は俺かもしれない」と怯えてるのをパティとロバートで宥めた、なんて話もあった。ちなみに、次のJはみなさんご存じかもしれませんが、Jim Morrisonっすね。ジョニー・ウインターは御年68才、まだご健在ですよ。
ところで、ジャニス・ジョプリンについては、またまたお世話になります、ロックマニア・フレさんのブログへジャンプしてください。下記の記事は映画のレヴューですが、「メルセデス・ベンツ」のアカペラの動画がアップされていたので選びました。ブログにはCDのレヴューやジミヘンも沢山ありますので、どうぞー。
Janis Joplin - Janis 「ロック好きの行く着く先は・・・」
ロバートはチェルシーの友人で映像作家のサンディー・デイレーからポラロイドカメラを借りて、パティのポートレイトを撮り始めるが、まだセルフポートレイトやゲイ向けの写真には向かっていない。もっぱらパティがアーティストになる為のサポート役に回っている感じだ。パティがボブ・ニューワースから「歌を書いてみたら」と勧められた時に、ロバートは真っ先に賛成した。「僕はキミの歌う歌が大好きなんだ。」と言い、彼女がノート書き溜めていた詩を、「もっと沢山の人達に聞かせるべきだ」と言った。パティはまだ自分がアーティストになれるのか、全く自信を持ってなかった様子だが、ロバートには確信があったらしい。そう言う意味で、やはり彼無くしてはロック詩人パティ・スミスは生まれなかったのかもしれないし、彼女もそれを伝えたくて、この本を書いたのかもと思った。ロバートが彼女に詩の朗読を勧めた事で、また1人のアーティストと出逢った。それが、ジム・キャロル(1949~2009)である。ジムが自身の青春時代を綴った「マンハッタン少年日記」は後に、ディカプリオ主演で映画「バスケットボール・ダイアリー」(1995年)にもなった。そして彼はパティの後を追うように、ジム・キャロル・バンドとしてアルバムもリリースしている。ここで面白かったのは、パティがジムへの恋心をハッキリ書いていた事だ。「彼を恋人にしたかった。でも、彼が私を愛していないと知っていた」と。後年、数々の男性達と浮名を流した彼女にも、そんな事があったのね。
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<「People Who Died」(ファーストアルバム収録)はパティもライヴで歌う曲>
<パティをソデにした男のセカンドアルバムにはVUのSweet Janeのカヴァー有り>
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ジャニスやジミ以外に、パティがボブ・ニューワースを介して出逢ったアーティストは名前が出てきただけでも、トム・パクストン、エリック・アンダーソン、ロジャー・マッギン、クリス・クリストファーソン等がいたが、もう1人記述しておきたいのがトッド・ラングレン。パティはボブに連れられ、フィルモア・イーストでクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングを見た。「CSN&Yは正直好みでなかったが、Neil YoungのOhioに感銘を受けた。アーティストの語り部としての役割を目の当たりした思いがあった」と語るパティ。そしてその後、ボブと一緒に彼女は、ザ・バンド「Stage Fright」のレコーディング立ち合う機会を得た。そこでエンジニアをしていたのがトッドである。彼とはUpper Darby(ペンシルヴァニア州・フィラデルフィアにある町)の出身である事から、直ぐに仲良しになった。パティの祖父母がUpper Darbyの出であったため「同じルーツ」、と親近感が強かったそうで、その後トッドから「今度Upper Darbyへ帰るんだけど、一緒に行く?」と誘われて、一緒に行き、彼の家族と会ったりもしている。この辺の話は、彼女の音楽への影響は感じられないが、「トッドは気取らない気さくな男」という私が持ってたイメージとピッタリで、つい嬉しくなってしまったエピソード。
<1988年の来日時、フレンドリーなトッド・ラングレンから頂いたサイン>

パティはボブ・ニューワースに勧められ、ロバートの応援も受けて徐々にロック・アーティストへの階段を上り始めた。少ない給料からやりくりしてマーテインのアコースティックギターを手に入れる。チューニングの仕方も分からず、チェルシーの知人にしてもらった。ボブ・ディランの曲をコピーしたり、何とか覚えたスリー・コードを弾きながら、生まれて初めて作った歌が「Fire of Unknown Origin」だ。後にブルー・オイスター・カルトの曲(オリジナルとは全く別モンのポップな曲で、ズッコケた)にも使われた歌詞だが、彼女自身の歌はシングル「フレデリック」のB面として発表された。最初は詩として書かれたものを、ギターのコードに乗せて読む事で出来上がっていった。ロバートとサンディの前て、初めて弾き語りした日の事が書かれていた。
多分パティはこのやり方で、これ以降も歌を作っていくのだろう。ファーストアルバム「ホーセス」に収録されたヴァン・モリソンの曲「グローリア」のカヴァーは、詩の朗読のようなオープニングで、この彼女のスタイルは1970年の時点で、既に出来上がっていたのかもしれない。
と言ったところで、今回はおしまいにします。
その(4)に続く。
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うん、
常に共通しているのは自分に刺激を与えてくれる人との共生。
個性的な人が周囲にいる環境だったんだなぁ〜と思います、ま、時代かも。
ブログ紹介ありがとうございます♪