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yuccalina

Author:yuccalina
自閉症の息子(14才)と、エンジニアの夫との3人暮らしのアラフィー主婦です。45才でヨガ指導者スクールを卒業し、現在地元で極々細やかな教室を開催。

一方、トランシルヴァニア(カロタセグ地方)の伝統刺繍、イーラーショシュのステッチを用いた雑貨『Yuccalina Erdő=ユッカリーナ・エルドゥ』の制作も行っています。

ミンネ・ギャラリーにて作品展示中。

ブログでは主にハンドメイド、ガーデニングに加え、10代から親しんできたロック音楽に、映画、本等について綴っています。

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ユッカリーナのヨガ的雑記帳


2015/09/05 10:40 yuccalina

『ハンナ・アーレント』~全体主義における陳腐な悪

クリント・イーストウッド監督の硫黄島プロジェクト二作品に続き、8月にCSで見た映画をもう一つ紹介します。こちらも戦争関連の作品ですが、テーマは「全体主義における悪の凡庸さと、思考の重要性」という、非常に哲学的なものです。

それがドイツ映画『ハンナ・アーレント』。ドイツ出身でアメリカに渡ったユダヤ人政治哲学者を描いた作品です。1963年エルサレムで行われた、ナチスの残党アイヒマン裁判を現地で取材したハンナ・アーレントは、後にニューヨーカー誌でレポート発表し、大バッシングを受けるのです。



ハンナの主張を要約すれば、アイヒマンは反ユダヤ主義者でない。彼はナチスが犯した非道な大罪とはかけ離れた、平凡な役人でしかない。ただ上からの命令に従うだけの人間であった。彼の罪が何だったのかと言えば、全体主義によって無力化された人間が、善悪を考えられなくなり、思考を停止したことだ。そう言う意味で、

アイヒマンの悪は余りにも陳腐である

だからこそ、彼自身には罪の意識がなく、無罪を主張出来てしまうのですね。もしもアイヒマンが、自分の頭で善悪を考える人間であったなら、例え自分が直接殺害に関わってなくても、ユダヤ人を収容所へ送ったことへの責任と、罪悪感を感じたでしょうから。思考停止故に、そこまで思い至らなかったのでしょう。

私は、アイヒマンの悪が己の欲求から出た利己的な悪とは全くの別物である、という論理自体は、それほど分かり難くないとは思うのですが、同じ全体主義における無力化の例として、「ナチスに協力したユダヤ人指導者たち」の話を引き合いに出したことが、一番大きな問題だったのではないかと思いました。実際ニューヨーカー誌の編集者が、そこの部分を削除出来ないかと、ハンナに頼むくだりが出てきました。ユダヤ人指導者達は戦時下において、非力ゆえにナチスに協力せざるをえなかったのですが、彼女はそれを事実として提示しただけで、決して批判をしたわけではない、と主張します。しかし、「ナチスとユダヤ人指導者を同列にした」のは、衝撃的で受け入れ難い内容だったのは、私でも想像がつきます。もうこうなったら、ハンナの評論を全否定するしかないくらい、ユダヤ人を追いつめてしまったのではないかと。

多分、ユダヤ人の大半にとって、この裁判で重要だったのは、ナチスへの恨みをどうやって晴らすかだけだったのでしょう。だから、アイヒマンは極悪な人間でなくてはいけない、そうでなければ亡くなった同胞が浮かばれないと。思えば、終戦時に悪の元締めであったヒトラーを始め、主要な幹部は自殺し、生き残ったナチスを裁いたのは連合軍でした。ユダヤ人が自らの手でナチスを吊し上げるべき敵が、平凡な役人であってはやりきれないですもんね。

だからこそ、アイヒマンが犯した罪の背景を探り、冷静に理解しようとするハンナが、まるで彼の味方をしてるように写ってしまったのでしょう。そうしたユダヤ人達へ気遣いを、何とか文章に盛り込むことは出来なかったのかな?いや、そうしたら、哲学ではなくなってしまうんでしょうね。

ハンナは哲学者として、やるべきことをやるしかなかった。真摯に裁判と向きあい、解明しようとした。全体主義によって現た、新しい悪を。それ故に、ハンナはアイヒマンの罪とは直接関係のない話が長々と続く裁判自体に、不信感を抱いていた様です。そして、容赦なく、あくまでも哲学的に持論を展開してしまった。そんな彼女と全く方向性の違うユダヤ人達の考えが噛み合う訳がないのです。映画のクライマックスは大学での講義のシーン、ユダヤ人の古い友人ハンスが聞きに来ていて、終了後にこう言ったのです。「君は傲慢な人だ。ユダヤを分かってないから裁判を哲学論文にしてしまう」。正に両者の食い違いを象徴するセリフであったと思います。

さて、ハンナの評論は、確かにユダヤ同胞にとっては冷たかったのでしょうが、悪の凡庸さを解明することは、将来を担う若い世代にとっては非常に有意義だった様です。先述のラストの講義では、友人から絶交されたものの、聴講者の大半である若い学生達は皆、大きな拍手を以って彼女を絶賛したのでした。

ここで、ハンナのその講義の中で、印象的だった言葉を紹介しますね。

私が望むのは考えることで人間が強くなることです。
危機的状況にあっても、考え抜くことで、破滅に至らぬよう。


思考停止が残虐行為につながる危険性を解いたハンナ・アーレントですが、彼女自身は思考によって、ナチスへの怒りと憎しみを乗り越えたのかもしれない。私にはそう思えた瞬間でした。そこで気になるのは、現在のイスラエルでの彼女の評価ですね。裁判当時はまだ傷も癒えてなかった為、拒絶してしまったのでしょうが、その後彼女の論理と向き合うことは出来たのでしょうか。

それは、かの地において、正に思考停止による凡庸な悪が殺戮行為に繋がってはいないのか?との疑問がわいてくるからです。ハンナが示した道筋が、決して無駄にならないことを祈るばかりです。


お読み頂きありがとうございました。
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テーマ:ドイツ映画 - ジャンル:映画

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Comment
yuccalina さん、こんにちは。

実は映画を観る習慣がなく、こちらの映画も観ていないし、ハンナ・アーレントという哲学者についてもろくに知らないのですが、yuccalina さんの記事を拝読していて、アーレントも哲学者らしい人だなぁ、と改めて思いました。哲学は、事実や真実の分析が仕事だから、どういう話をすると人が喜ぶかとか、事実の指摘が人を追い詰めるのではないか、といった事は全く考えないんですよね・・。そういう事をしだすと、原理的な解明ができないので・・。それで、一般的に哲学は、宗教や心理学と違って、ひどく人気がないなぁ、と思います。

いわゆる全体主義というのとは異なりますし、日本人はプロパガンダに踊らされても、暴力的になるところはあまりないと思うのですが、全体の空気に支配されやすくて、「思考停止」になるというところは、すごくあると思います。たとえば、皆の気分と違う方向の発言をすると、たとえ正論であっても、「空気を読まない」とか言われたりしますよね・・笑
日本のような狭い国土の中に大勢の人がいて、一緒に仲良くやっていくには、そうした民族性が好まれるのは尤もなことだろうとは思います。
それで、日本人が「思考停止」っぽいところは、もしかしたら昔からなんじゃないかという気もしますが、日本が伝統社会の中にある時代に、モラルや道徳が習俗や生活規範、常識として人々の間で共有されていた頃は、考えなくても多くの人たちが立派に振る舞えて良かったと思うのです。
しかし、そうした伝統的価値が共有されなくなっている今日、本当は日本人はもう、「思考」しないわけにはいかないはずだと、私は非常に強い危機感を感じています。
残虐行為という方向とは正反対っぽいし、「悪」とは言えないとしても、今の日本は偽善的な「思考停止」が、全体の空気で無責任に肯定されすぎていて、諸外国との関係や、経済問題、エネルギー問題等で、危機的状況を招きかねないと思います。

ナチスやユダヤと無関係なコメントがすごく長くなって、すみません。
Arianeさんへ

> アーレントも哲学者らしい人だなぁ、と改めて思いました。哲学は、事実や真実の分析が仕事だから、どういう話をすると人が喜ぶかとか、事実の指摘が人を追い詰めるのではないか、といった事は全く考えないんですよね・・。そういう事をしだすと、原理的な解明ができないので・・。それで、一般的に哲学は、宗教や心理学と違って、ひどく人気がないなぁ、と思います。
それは映画を見てて伝わってきました。特にユダヤ人の旧友達が、落胆し怒ってたのは、彼女を友人としてしか見てない、哲学者としての彼女を拒否してる様にも見えました。
ただ、発表の場が専門家向けでなく、ニューヨーカーと言う一般誌でしたので、その辺何とか折り合いは付かなかったのかな、と思いました。彼女の思考への考え方自体は素晴らしいのに、広く一般に広める機会を、自ら閉ざしてしまったようで、勿体ない様な気がしたからです。

> いわゆる全体主義というのとは異なりますし、日本人はプロパガンダに踊らされても、暴力的になるところはあまりないと思うのですが、全体の空気に支配されやすくて、「思考停止」になるというところは、すごくあると思います。たとえば、皆の気分と違う方向の発言をすると、たとえ正論であっても、「空気を読まない」とか言われたりしますよね・・笑
それはありますね。空気を読まなければ行けない、同調圧力はどんな集団でもありそうです。

> 日本のような狭い国土の中に大勢の人がいて、一緒に仲良くやっていくには、そうした民族性が好まれるのは尤もなことだろうとは思います。
> それで、日本人が「思考停止」っぽいところは、もしかしたら昔からなんじゃないかという気もしますが、日本が伝統社会の中にある時代に、モラルや道徳が習俗や生活規範、常識として人々の間で共有されていた頃は、考えなくても多くの人たちが立派に振る舞えて良かったと思うのです。
> しかし、そうした伝統的価値が共有されなくなっている今日、本当は日本人はもう、「思考」しないわけにはいかないはずだと、私は非常に強い危機感を感じています。
そうですね。それは、昔から日本に自然災害が多いのと、関係あると思います。環境からのストレスが多い分、人との間ではなるべく波風を立てずにやってきたのでしょうが、それも伝統的価値観の共有があってこそ、成り立っていたのでしょうね。残念ながら価値観の多様化した現代では、自分の頭で思考出来ないと危ないのはよく分かります。

> 残虐行為という方向とは正反対っぽいし、「悪」とは言えないとしても、今の日本は偽善的な「思考停止」が、全体の空気で無責任に肯定されすぎていて、諸外国との関係や、経済問題、エネルギー問題等で、危機的状況を招きかねないと思います。
ネットの情報に踊らされてる人々。偏った情報と解釈を真実として流すテレビや新聞など、落とし穴が一杯ありそうです。

> ナチスやユダヤと無関係なコメントがすごく長くなって、すみません。
いいえ、とても興味深いご意見をありがとうございました。
ハンナ・アーレントって、こういう人だったのですね。

名前はよく見るのですが、詳しく読むことは無かったので、
今回初めて知ったようなものです。

日本兵が第二次世界大戦時に、とっても残酷な行為をしたことも、思考停止によるものだったと言ってもいいですね。

日本人の悪い癖は、“水に流す”ことだと思うのですが・・・。
それと全体の責任にして、誰が責任者か曖昧にしちゃうことです。
最近のオリンピックの諸問題にもそれがよく表れていると思います。
ハンナ・アーレントと関係が無い話になってしまいました(^_^;)。
yuccalinaさん、こんばんは。
いい映画を紹介していただき、ありがとう。
「戦争の悪は、平凡な人間が行う悪なのです」、という言葉にはいろいろ考えさせられますね。
だからこそ、アイヒマンが許される訳ではありませんが、戦争というのは考えるだに恐ろしい。
バニーマンさんへ

> 日本兵が第二次世界大戦時に、とっても残酷な行為をしたことも、思考停止によるものだったと言ってもいいですね。
戦争状態で感覚が麻痺してたんだろう、というのは想像できますし、それと無知や恐怖心によるものもあった気がします。鬼畜米英を教え込まれて、欧米人が得体のしれない恐ろしい人間だとおもってたから、その恐怖心がリンチに駆り立てたとか。あくまで私の想像ですが、、。

> 日本人の悪い癖は、“水に流す”ことだと思うのですが・・・。
> それと全体の責任にして、誰が責任者か曖昧にしちゃうことです。
> 最近のオリンピックの諸問題にもそれがよく表れていると思います。

水に流すとか、長い物に巻かれるとかが、悪い癖なのか美徳なのかは時と場合によるのでしょう。責任の所在をハッキリさせることもそうですね。一方で、何かよく分からないまま、謝罪ばかりしてるケースもありますけどね。
ticcaさんへ

> いい映画を紹介していただき、ありがとう。
> 「戦争の悪は、平凡な人間が行う悪なのです」、という言葉にはいろいろ考えさせられますね。
> だからこそ、アイヒマンが許される訳ではありませんが、戦争というのは考えるだに恐ろしい。

考えるのは恐ろしいけど、知らんぷりすることは出来ないのが戦争。人間がやることですから。兵器がどんなに最新鋭だろうが、ボタンを押すのは人間の判断ですもんね。


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