2015.06/26 [Fri]
最初で最後の私のアイドルJulian Copeのこと~その(1)Teardrop ExplodesのラストEPからファーストソロまで
- ジャンル:[音楽]
- テーマ:[80年代の洋楽(new wave)]
ジュリアン・コープJulian Copeについては、書きたいことが山ほど有って、どこから手を着けたら良いのやら、ずっと迷っていました。しかし、ある日書類を整理してた時に、彼のインタビューやグラビアを切り抜いた束を発見して、私はこう確信したのです。
ジュリアン・コープこそ、最初で最後の私のアイドルなのだと。
<発掘された切り抜きの一部>


小学6年生でロックと出会って以来、ベイ・シティ・ローラーズだの、ピーター・フランプトンだの好きだったことは、チラホラ書いたことがありますが、どれも長続きはせず、影響力が強かったとは言えません。また、現在はブルースに浸りつつあるワタクシですが、アイドルを追う感覚とは別物。切り抜き記事を読み返しつつ、実感しました。やはりジュリアン・コープは別格なんです。
来日時(85、87、89年)は東京公演の殆どに足を運び、
ジュリア~ン!
と黄色い声援を送っては、
Juliaaaan!
と、本人が真似するように返してきた(=全ての女子が自分にだけ言ってくれたと思ってた筈)のも、チケット争奪の為、電話をかけまくったことすら、青春の一ページ。あんな事はもう二度とないでしょう。また、彼の影響で、The Vogues(5o'clock World), Shadows of the Knight(Someone Like Me), Peru Ubu(Non Alignment Pact)を知り、13th Floor ElevatorsはTelevision経由で既に知ってたけど、I'v Got Levitationをカバーしてたっけ、等々のアーティスト達にも開眼。そうそう、スコット・ウォーカーもジュリアンの影響だったし~
ジュリアンを聴きなおそうと思ったキッカケは、4年前に紹介した(コチラ)著書『ジャップ・ロック・サンプラー』でした。その時全然知らなかった布施明のLOVE LIVE LIFE +1を聴いたり、その影響力は衰えていませんでした。そこで、2000年の『20マザーズ』を最後に、ジュリアンのアルバムを全く聴いてなかったことに気が付き、ネット検索をしてみた。すると、その後もジュリアンは意欲的にアルバムを発表し続けていた様で、たどり着いたのがSAMARQAND淫美ブログでした。何と、殆どのアルバムが紹介されていたんです。
その一方で、chocoberryさんのブログ『私的名盤探究』では、ジュリアンのバンド、ティアドロップ・エクスプローズ(以下TDEと略)のファースト『キリマンジャロ』が紹介されていて(コチラ)、何と1000円(税別)というお安い日本盤が出てるというではありませんかっ!TDEはセカンドも同様の廉価盤シリーズに入っている模様。30年前、渋谷や新宿の輸入レコード店を巡って、ちょっと高めの中古を手に入れて大喜びしていたのものですが、いやー、良い世の中になりましたね。
と、しみじみしたところで、私は何を書こうか?と考えてみた。アルバムレビューならSAMARQANDさんがとても丁寧に書いてらっさるから、それで十分。今後アルバムレビューのリンクも、SAMARQANDさんから許可を頂いところです。
そこで、ワタクシ考えました。この残された切り抜きにあるジュリアンの言葉を紹介しながら、私にとってのジュリアン・コープが何なのかを、探って行く所存でございます。既に好評?連載中の『シド・バレットは不思議王子』シリーズと同じノリで行きまっせ~!
と、長~い前置きでしたが、本題はここから。
最初に聴いたレコードは1983年の秋、TDE解散後リリースされたラストEP『You Disappear From View』で、買ったのは今は亡きお茶の水CISCOです。
<『You Disappear from View』12”のジャケット>

<こちらは7インチのジャケットでB面はSuffocate>

それより遡り、TDE及びジュリアン・コープの名前を知ったのは、ZIG ZAG EASTと言う雑誌から。当時好きだったエコー&ザ・バニーメンと関係があったので、興味を抱いたと。その結果、ジュリアンへの想いはエコバニへのそれを軽く越えていったのです。このEPの曲は、ジュリアンのソロがそこそこ売れた後にリリースされたTDEの未発表アルバム『Everybody Wants To Shag...』で聴けますので、ここにSAMARQANDさんのレビューも貼っておきますね。
Everybody Wants to Shag.../Teardrop Explodes 「SAMARQAND淫美ブログ』より

聴いて最初に思ったのは、エコバニよりも全然ポップ!そして、ホーンの使い方がカッコ良い!ま、ホーンが入ってなくても、十分カッコ良い曲なのは、次のアコースティック版を聴いても明らかで、
てか、今ではアコースティックの方が好きかもしれません。良い曲は、派手なアレンジがなくても十分。要するにポップセンスがあるんでしょうね。ジュリアンの低い声もヴォーカルスタイルも、凄く魅力的でしたが、何よりも、誰か他人からのオススメでなく、自分から興味を持ってレコードを探して買ってみた。これが一番興奮した要因だったのかもしれませんね。以降、輸入盤屋で知らないアーティストをジャケ買いすることが多くなった。そう言う意味でも、かなり記念的レコードです。
その後は前述の如く、輸入レコード店を巡って、TDEの2枚のアルバムを入手し、夢中になって聴きまくった。だのに、グループは解散していて、日本での情報は相変わらず少ない。ネットもYouTubeもない時代は、輸入レコード店だけが頼りでした。しかし、83年の暮れにはソロになってから初のシングル『Sunshine Playroom』。開けて84年には、ファーストソロのイギリス盤が日本の輸入レコード店にも並び、当然ワタクシも馴染みの御茶ノ水CISCOで購入し聴き入りました。

ジャケットがモロ、スコット・ウォーカーや~!と当時は全く気がつかず、スコットを知ったのも後です。また、『Sunshine Playroom』のPVは大分あとになって、新宿の海賊ビデオ店AでPALからダビングしたテープを買って見ました。YouTubeにアップされてるのは、音と映像が微妙にズレてますが、
このドラマ仕立てで小芝居をするところが、いかにも80年代風ですね。で、その後ある音楽雑誌に、画期的なインタヴュー記事が登場したのです。

それは、何と音楽専科!なじぇに画期的かと言うと、国内盤レコードが出てないアーティストのインタヴューに、結構なページを割いていたから。先述のZIG ZAG EASTは本国イギリスのZIGZAGを翻訳したものであり、一部の輸入レコード店でしか入手出来ない、とてもマイナーな雑誌でした。一方の音楽専科は普通の書店にも置いてあるものであり、Fool's MateやDOLLみたいに、積極的に輸入盤レコードを紹介する雑誌でもなかった。因みにクロスビートの創刊(1988年)までは、あと4年も待たなければならなかったんですね。

で、本文によると、ファーストソロ『World Shut Your Mouth』が間もなくリリースとありましたから、逆算して、1984年の1~3月号あたりではないかと思います。インタヴュアーの黒沢美津子さんは以前音楽専科の編集長をされていた方で、当時はロンドン在住で特派員的な仕事をしてた模様。ジュリアンの日本盤レコードが出たのは確か初来日(1985年7月)の直前か後でしたから、それより1年早く「ジュリアン・コープこれから来るんじゃね?」と予測してたのなら、音楽専科は実に天晴だったと思うのです。SAMARQANDさんのレビューにもある通り、当時としてはかなり斬新な音作りをしていたTDEが、まだ日本で紹介されてない頃から注目し、ジュリアンのソロデビューを待ってたのかも?と思うと、かなり嬉しいんですわ。
当時音楽専科が積極的に盛り上げてたデュラン・デュランとかカルチャー・クラブからは、ジュリアンは程遠い存在だったでしょうね。私はその辺りは殆どハマってなかったんですが、8ビートギャグが好きで、よく立ち読みしていた。そのお蔭で、記事にも気が付いて、購入出来てたんですね。因みに切り抜き記事の最終ページの裏側がこんな感じでしたよ。

、、、どちらも故人ですね、、、。ミック・カーン(左)のいたジャパンや、右のゲイリー・ムーアは8ビートギャグによく登場してたキャラでした。それにしてもこのツアー、凄いですよね。30年前で9日間43万円ですか。どんなアーティストと交流したんでしょうかね?やっぱデュラン・デュランは外さなかったかな?
と、話が外れてしまいましたが、最後に、このインタビューで私が注目したジュリアンの言葉をいくつか書き出しておきたいと思います。
(ファーストアルバム『World Shut Your Mouth』が出るまでの)この2年間はハッピーだった。ティアドロップ時代は、音楽的には幸せだったが、自分の役目にはハッピーじゃなかった。
自分の価値観では、間違った方向に行ってたし、落着けなかった。僕はコントロールがきかないタイプだから、(TDEの頃)成功するのはちょっと怖れていた。
(曲作りについて)殆どが自分についての歌。自分に対抗するもの、抱えている問題など、自分に関係あることしか書けない。
(『World Shut Your Mouth』は)とても英国的なアルバム。大英帝国をつっついてる感じだが、決して退廃を歌っていないし、楽観性とモラルがある。
本当にいい音楽というのは、カテゴリーに収まらないもの。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドはサイケデリアと言うよりも、混乱の中の音、ずっとずっと凄い音。
社会は一つの狂気であり、そのワクに対して戦って行くとこが大事。答えを求めてはいないが、常に何でこうなるのかを問い続けていくことが必要。
他人が自分をどう思うか全く気にしなくなった。他人の思い通りに固まって、ビジネスに巻き込まれたくない。
僕は昔のロックンローラーじゃないから、早く死にたいなんて思わない。
僕の中に沢山の悪魔は住んでいるが、善を信じているし、自分の悪を押さえつけられる人間。例え心の中に悪魔が潜んでいても、善を強く信じているから、こうして生きていける。
TDE時代の自分の役割が嫌だったというのは、アイドル的存在だったことなんでしょうか?当時は実感出来ませんでしたが、今ではYouTubeでTDEの動画が沢山見られます。トップ・オブ・ザ・ポップスでの口パクとかは、セックス・ピストルズやザ・ジャムもやってましたけどね。
でも、『Treason』はやっぱり良い曲ですわ~!
で、社会という狂気とか、最後の善と悪の話なんかは、後のアルバム『St. Julian』や『My Nation Underground』のコンセプトになっていそうで、非常に興味深いです。そして、ヴェルヴェッツを「混乱の音」と表現しているのは、その善悪の話と繋がっていると思います。ジュリアンは常に、相反するものがせめぎ合って混乱した状態を良しとするところがあって、ヴェルヴェッツは勿論のこと、好きなアーティストとして上げいている、シド・バレット、マーク・アーモンドなども、同じ意味で好んでいたような気がします。物事の表と裏を常に意識しながら、そのバランスを保とうともがいているのが好きなのかも?
とここで、ハッと気が付いたんですね。私がジュリアンに魅かれていた理由が、今ハッキリと分かってきました。あの時代、私のアイドルが何故ポール・ウェラーでもなく、ボノでもなく、ジュリアンだったのか。彼は己の不安定を認識しつつ、常にバランスを取ろうともがく自分を表に出すのをいとわない。私はその姿に共感していたのでしょう。そして、ジュリアンが後に日本や東洋思想に興味を抱いたのも至極当然な気がしたのでした。
実のところ、私は91年の来日公演すら行ってないし、90年代にアイランドレコードを止めて以降のジュリアンは、殆ど追いかけていませんでした。それから『ジャップロックサンプラー』で再会するまでの約20年を、これから少しずつ埋めていこうと思っています。ジュリアンの公式サイトHead Heritageも、少しずつ覗いている状態ですが、heritage=伝承というコンセプトが、実は私が日頃生活の中で意識してるものであったり、彼がヴェジタリアンで瞑想を行っているらしいことも、ヨガを学ぶ私にとっては、知らない間に共有してる価値観があったのかもしれない、と不思議な感覚がありました。現在の彼の活動を受け止める為にも、始まりの80年代から遡ってみたくなった訳です。
という訳で、次回は85年の初来日直前のインタヴューを紹介するつもりです。
その(2)へつづく
お読み頂きありがとうございました。
↓良ろしかったらポチお願い致しますm(__)m
ジュリアン・コープこそ、最初で最後の私のアイドルなのだと。
<発掘された切り抜きの一部>


小学6年生でロックと出会って以来、ベイ・シティ・ローラーズだの、ピーター・フランプトンだの好きだったことは、チラホラ書いたことがありますが、どれも長続きはせず、影響力が強かったとは言えません。また、現在はブルースに浸りつつあるワタクシですが、アイドルを追う感覚とは別物。切り抜き記事を読み返しつつ、実感しました。やはりジュリアン・コープは別格なんです。
来日時(85、87、89年)は東京公演の殆どに足を運び、
ジュリア~ン!
と黄色い声援を送っては、
Juliaaaan!
と、本人が真似するように返してきた(=全ての女子が自分にだけ言ってくれたと思ってた筈)のも、チケット争奪の為、電話をかけまくったことすら、青春の一ページ。あんな事はもう二度とないでしょう。また、彼の影響で、The Vogues(5o'clock World), Shadows of the Knight(Someone Like Me), Peru Ubu(Non Alignment Pact)を知り、13th Floor ElevatorsはTelevision経由で既に知ってたけど、I'v Got Levitationをカバーしてたっけ、等々のアーティスト達にも開眼。そうそう、スコット・ウォーカーもジュリアンの影響だったし~
ジュリアンを聴きなおそうと思ったキッカケは、4年前に紹介した(コチラ)著書『ジャップ・ロック・サンプラー』でした。その時全然知らなかった布施明のLOVE LIVE LIFE +1を聴いたり、その影響力は衰えていませんでした。そこで、2000年の『20マザーズ』を最後に、ジュリアンのアルバムを全く聴いてなかったことに気が付き、ネット検索をしてみた。すると、その後もジュリアンは意欲的にアルバムを発表し続けていた様で、たどり着いたのがSAMARQAND淫美ブログでした。何と、殆どのアルバムが紹介されていたんです。
その一方で、chocoberryさんのブログ『私的名盤探究』では、ジュリアンのバンド、ティアドロップ・エクスプローズ(以下TDEと略)のファースト『キリマンジャロ』が紹介されていて(コチラ)、何と1000円(税別)というお安い日本盤が出てるというではありませんかっ!TDEはセカンドも同様の廉価盤シリーズに入っている模様。30年前、渋谷や新宿の輸入レコード店を巡って、ちょっと高めの中古を手に入れて大喜びしていたのものですが、いやー、良い世の中になりましたね。
と、しみじみしたところで、私は何を書こうか?と考えてみた。アルバムレビューならSAMARQANDさんがとても丁寧に書いてらっさるから、それで十分。今後アルバムレビューのリンクも、SAMARQANDさんから許可を頂いところです。
そこで、ワタクシ考えました。この残された切り抜きにあるジュリアンの言葉を紹介しながら、私にとってのジュリアン・コープが何なのかを、探って行く所存でございます。既に好評?連載中の『シド・バレットは不思議王子』シリーズと同じノリで行きまっせ~!
と、長~い前置きでしたが、本題はここから。
最初に聴いたレコードは1983年の秋、TDE解散後リリースされたラストEP『You Disappear From View』で、買ったのは今は亡きお茶の水CISCOです。
<『You Disappear from View』12”のジャケット>

<こちらは7インチのジャケットでB面はSuffocate>

それより遡り、TDE及びジュリアン・コープの名前を知ったのは、ZIG ZAG EASTと言う雑誌から。当時好きだったエコー&ザ・バニーメンと関係があったので、興味を抱いたと。その結果、ジュリアンへの想いはエコバニへのそれを軽く越えていったのです。このEPの曲は、ジュリアンのソロがそこそこ売れた後にリリースされたTDEの未発表アルバム『Everybody Wants To Shag...』で聴けますので、ここにSAMARQANDさんのレビューも貼っておきますね。
Everybody Wants to Shag.../Teardrop Explodes 「SAMARQAND淫美ブログ』より

聴いて最初に思ったのは、エコバニよりも全然ポップ!そして、ホーンの使い方がカッコ良い!ま、ホーンが入ってなくても、十分カッコ良い曲なのは、次のアコースティック版を聴いても明らかで、
てか、今ではアコースティックの方が好きかもしれません。良い曲は、派手なアレンジがなくても十分。要するにポップセンスがあるんでしょうね。ジュリアンの低い声もヴォーカルスタイルも、凄く魅力的でしたが、何よりも、誰か他人からのオススメでなく、自分から興味を持ってレコードを探して買ってみた。これが一番興奮した要因だったのかもしれませんね。以降、輸入盤屋で知らないアーティストをジャケ買いすることが多くなった。そう言う意味でも、かなり記念的レコードです。
その後は前述の如く、輸入レコード店を巡って、TDEの2枚のアルバムを入手し、夢中になって聴きまくった。だのに、グループは解散していて、日本での情報は相変わらず少ない。ネットもYouTubeもない時代は、輸入レコード店だけが頼りでした。しかし、83年の暮れにはソロになってから初のシングル『Sunshine Playroom』。開けて84年には、ファーストソロのイギリス盤が日本の輸入レコード店にも並び、当然ワタクシも馴染みの御茶ノ水CISCOで購入し聴き入りました。

ジャケットがモロ、スコット・ウォーカーや~!と当時は全く気がつかず、スコットを知ったのも後です。また、『Sunshine Playroom』のPVは大分あとになって、新宿の海賊ビデオ店AでPALからダビングしたテープを買って見ました。YouTubeにアップされてるのは、音と映像が微妙にズレてますが、
このドラマ仕立てで小芝居をするところが、いかにも80年代風ですね。で、その後ある音楽雑誌に、画期的なインタヴュー記事が登場したのです。

それは、何と音楽専科!なじぇに画期的かと言うと、国内盤レコードが出てないアーティストのインタヴューに、結構なページを割いていたから。先述のZIG ZAG EASTは本国イギリスのZIGZAGを翻訳したものであり、一部の輸入レコード店でしか入手出来ない、とてもマイナーな雑誌でした。一方の音楽専科は普通の書店にも置いてあるものであり、Fool's MateやDOLLみたいに、積極的に輸入盤レコードを紹介する雑誌でもなかった。因みにクロスビートの創刊(1988年)までは、あと4年も待たなければならなかったんですね。

で、本文によると、ファーストソロ『World Shut Your Mouth』が間もなくリリースとありましたから、逆算して、1984年の1~3月号あたりではないかと思います。インタヴュアーの黒沢美津子さんは以前音楽専科の編集長をされていた方で、当時はロンドン在住で特派員的な仕事をしてた模様。ジュリアンの日本盤レコードが出たのは確か初来日(1985年7月)の直前か後でしたから、それより1年早く「ジュリアン・コープこれから来るんじゃね?」と予測してたのなら、音楽専科は実に天晴だったと思うのです。SAMARQANDさんのレビューにもある通り、当時としてはかなり斬新な音作りをしていたTDEが、まだ日本で紹介されてない頃から注目し、ジュリアンのソロデビューを待ってたのかも?と思うと、かなり嬉しいんですわ。
当時音楽専科が積極的に盛り上げてたデュラン・デュランとかカルチャー・クラブからは、ジュリアンは程遠い存在だったでしょうね。私はその辺りは殆どハマってなかったんですが、8ビートギャグが好きで、よく立ち読みしていた。そのお蔭で、記事にも気が付いて、購入出来てたんですね。因みに切り抜き記事の最終ページの裏側がこんな感じでしたよ。

、、、どちらも故人ですね、、、。ミック・カーン(左)のいたジャパンや、右のゲイリー・ムーアは8ビートギャグによく登場してたキャラでした。それにしてもこのツアー、凄いですよね。30年前で9日間43万円ですか。どんなアーティストと交流したんでしょうかね?やっぱデュラン・デュランは外さなかったかな?
と、話が外れてしまいましたが、最後に、このインタビューで私が注目したジュリアンの言葉をいくつか書き出しておきたいと思います。
(ファーストアルバム『World Shut Your Mouth』が出るまでの)この2年間はハッピーだった。ティアドロップ時代は、音楽的には幸せだったが、自分の役目にはハッピーじゃなかった。
自分の価値観では、間違った方向に行ってたし、落着けなかった。僕はコントロールがきかないタイプだから、(TDEの頃)成功するのはちょっと怖れていた。
(曲作りについて)殆どが自分についての歌。自分に対抗するもの、抱えている問題など、自分に関係あることしか書けない。
(『World Shut Your Mouth』は)とても英国的なアルバム。大英帝国をつっついてる感じだが、決して退廃を歌っていないし、楽観性とモラルがある。
本当にいい音楽というのは、カテゴリーに収まらないもの。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドはサイケデリアと言うよりも、混乱の中の音、ずっとずっと凄い音。
社会は一つの狂気であり、そのワクに対して戦って行くとこが大事。答えを求めてはいないが、常に何でこうなるのかを問い続けていくことが必要。
他人が自分をどう思うか全く気にしなくなった。他人の思い通りに固まって、ビジネスに巻き込まれたくない。
僕は昔のロックンローラーじゃないから、早く死にたいなんて思わない。
僕の中に沢山の悪魔は住んでいるが、善を信じているし、自分の悪を押さえつけられる人間。例え心の中に悪魔が潜んでいても、善を強く信じているから、こうして生きていける。
TDE時代の自分の役割が嫌だったというのは、アイドル的存在だったことなんでしょうか?当時は実感出来ませんでしたが、今ではYouTubeでTDEの動画が沢山見られます。トップ・オブ・ザ・ポップスでの口パクとかは、セックス・ピストルズやザ・ジャムもやってましたけどね。
でも、『Treason』はやっぱり良い曲ですわ~!
で、社会という狂気とか、最後の善と悪の話なんかは、後のアルバム『St. Julian』や『My Nation Underground』のコンセプトになっていそうで、非常に興味深いです。そして、ヴェルヴェッツを「混乱の音」と表現しているのは、その善悪の話と繋がっていると思います。ジュリアンは常に、相反するものがせめぎ合って混乱した状態を良しとするところがあって、ヴェルヴェッツは勿論のこと、好きなアーティストとして上げいている、シド・バレット、マーク・アーモンドなども、同じ意味で好んでいたような気がします。物事の表と裏を常に意識しながら、そのバランスを保とうともがいているのが好きなのかも?
とここで、ハッと気が付いたんですね。私がジュリアンに魅かれていた理由が、今ハッキリと分かってきました。あの時代、私のアイドルが何故ポール・ウェラーでもなく、ボノでもなく、ジュリアンだったのか。彼は己の不安定を認識しつつ、常にバランスを取ろうともがく自分を表に出すのをいとわない。私はその姿に共感していたのでしょう。そして、ジュリアンが後に日本や東洋思想に興味を抱いたのも至極当然な気がしたのでした。
実のところ、私は91年の来日公演すら行ってないし、90年代にアイランドレコードを止めて以降のジュリアンは、殆ど追いかけていませんでした。それから『ジャップロックサンプラー』で再会するまでの約20年を、これから少しずつ埋めていこうと思っています。ジュリアンの公式サイトHead Heritageも、少しずつ覗いている状態ですが、heritage=伝承というコンセプトが、実は私が日頃生活の中で意識してるものであったり、彼がヴェジタリアンで瞑想を行っているらしいことも、ヨガを学ぶ私にとっては、知らない間に共有してる価値観があったのかもしれない、と不思議な感覚がありました。現在の彼の活動を受け止める為にも、始まりの80年代から遡ってみたくなった訳です。
という訳で、次回は85年の初来日直前のインタヴューを紹介するつもりです。
その(2)へつづく
お読み頂きありがとうございました。
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こんにちは!
というわけで、こんにちは。
確かエコバに絡みのオムニバス盤でTDEを知って、
以来、日曜毎に西新宿のUK.Edisonに通っては、
旧譜やシングルなんかを買い漁る…
そんな時に突然の「ワールシャッチョマウ!」、
そして畳み込むように「フライド」のリリース。
もうたまりません(何が云いたいのかまとまりません)。
取り敢えずTreason名曲ですね。
個人的にはThe Culture Bunker…愛唱歌!?です。
今後ともよろしくです。