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Author:yuccalina
自閉症の息子(14才)と、エンジニアの夫との3人暮らしのアラフィー主婦です。45才でヨガ指導者スクールを卒業し、現在地元で極々細やかな教室を開催。

一方、トランシルヴァニア(カロタセグ地方)の伝統刺繍、イーラーショシュのステッチを用いた雑貨『Yuccalina Erdő=ユッカリーナ・エルドゥ』の制作も行っています。

ミンネ・ギャラリーにて作品展示中。

ブログでは主にハンドメイド、ガーデニングに加え、10代から親しんできたロック音楽に、映画、本等について綴っています。

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ユッカリーナのヨガ的雑記帳


2014/10/22 13:05 yuccalina

「藤田嗣治 パリからの恋文」その(3)~戦争画のこと

フランス人レオナール・フジタとして没した画家、藤田嗣治の評伝について書いています。前回はフジタよりもルーマニアの彫刻家ブランクーシの話ばかりになってしまいましたが、3回目は戦争画について。

藤田嗣治 パリからの恋文藤田嗣治 パリからの恋文
(2006/03/23)
湯原 かの子

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戦後日本を離れ、フランスに帰化するキッカケとなったのは、やはり戦争画ということになるのでしょうか。私としては、人懐っこくて、誰とでも仲良くなれて、争いを好まないタイプに見える彼と、戦争画というのが、全く結び付かなかったのですが、この本から垣間見える藤田嗣治の姿を紹介したいと思います。以下、赤字は全て本書からの引用です。

戦争画は難しい。生半可な絵描きじゃ描けない。ドラクロワとかベラスケスとかいう巨匠を連れてきて初めて傑作が出来る。

今まで取り組んだことのない、新しいジャンルへの挑戦だったのは確かな様ですが、それは別に戦争を賛美したことになるとは思いませんし、藤田嗣治の当時の発言は、当局の検閲を意識したものである可能性は十分にあるでしょうね。

当時の藤田の様子を、デッサンのモデルを務めた兵士が書き残しているそうで、

何日目だったか、藤田画伯は私にボタンと蝶の絵を、また、大野君には蜂とカブト虫の絵を描いたのを下さった。(『藤田嗣治・宮本三郎画伯のモデルになった兵隊』)

また、作家の井伏鱒二も、藤田と兵士のやり取りを書いていたそうで、

藤田は「兵隊さん、休憩して下さい」と言って絵具箱をあけた。それでモデルの兵が起立すると、藤田はモデルに煙草を一本進呈してライターで火をつけてやった。モデルを労うところが印象的であった。(『シンガポールで見た藤田嗣治』)

そして、藤田はこの二人のモデルに、日本の家族に何か伝言があれば伝えよう、と申しでて、帰国後、約束どおり兵士の家族宛に手紙を書いたそうです。

当然、これらのエピソードも、藤田が軍国主義に加担したことを示す訳ではありません。彼が人として思いやりのある行動をした記録です。しかし、戦争画を請け負ってしまったことへの批判は、身近な人から受けていた様で、藤田もやはり、なんの疑問もなく描いてたのではないみたいですね。それは、パトロンの平野政吉でした。

秋田の美術コレクター平野政吉は、戦時中にフジタと交わした会話をこう回想している。
藤田は戦争画を描くようになった。・・・・私は複雑な心境だった。藤田に一度言ったことがあった。「あれは純粋芸術ではない」。藤田は「あれは記録画のようなものだから」と言ったっきり、何も言わなかった。・・・・・芸術家に戦争は似合わない。「アッツ玉砕」を描き上げた昭和十八年には、秋田を訪れて「パリに帰りたい」と言い出した。私は、藤田の心情がよくわかった。過ごしにくい時代だった。(「聞き書き わがレオナルド藤田」)


戦後、藤田が戦犯と叩かれたのには、やはり一番の有名で世界的に成功した画家であったから、嫉妬によるバッシングが大きかったと思います。藤田が戦犯を免れたのを快く思わない一部の勢力が、彼の渡仏を邪魔していたのは事実だった様ですから。藤田は手紙にこう書いていました。

大変な迫害と邪魔が入って一通りの事ではなかった離国について、吾等の同業者の一部は、私を戦犯に陥れて、画壇から無き者にしようとした事に不成功したため、領事館に密告して私の渡航の許可を防止しようとしたからである。・・・・新聞社方面も私の動向に注目し・・・・動静をスパイしていた。

藤田のビザ申請書類が故意にまわされていなかったのは事実の様で、藤田は申請中に訪れたフランスの領事館で「あなたはまだ日本にいたのか?」と驚かれたそうです。書類はフランス外務省に送られず、領事館の引き出しに眠っていたという事件があったのです。

パリでの修行時代から、また成功を手にした後も、藤田は人懐っこく、人付き合いの良いタイプだったそうですから、本当に辛かったでしょうね。パリでは家族ぐるみの付き合いだった荻須高徳とは、直接何かあった訳でないのですが、先のビザ申請書類の差し止めが元で、後から申請した荻須が先に渡仏出来ることになってしまい、悪い空気になってしまったと。後から藤田が無事渡仏したものの、二人の間には距離が出来てしまったという、荻須夫人の話も載っていました。

さて、私は藤田の描いた戦争画の評価について、書くつもりは全くありません。藤田嗣治と言う画家の一つの要素ではあるんでしょうが、敢えて見たいとは思えないのです。ただ、どんな気持ちで描いていたのかには、とても興味がありました。彼が晩年、病に倒れたとき、病床で「何故戦争画を描いたのか」を問われて、こう答えたそうです。

戦争というのは本当に悲惨なもので、あの絵を見てもらったらわかるけど、あそこに将校は一人も描いていない、死んでいく兵隊がかわいそうで兵隊しか描いていない。

私にとっては、この言葉だけで十分です。パリ留学中に第一次対戦が勃発し、戦時中に色々と苦労してきた藤田だけに、上手く身を処す術を持っていたのかもしれず、それが戦後にアダとなったのではないかと、私は思っているのです。

と言ったところで、今回は話を閉じたいと思いますが、この「パリからの恋文」については、あともう一つだけ書きたいことがあるので、次回を最終回にしようと思っています。


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タグ: フランス

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Comment
とても可哀想なエピソードニダなぁ。
兵隊さんも藤田も辛い時期を過ごしましたね。

最後の「将校は一人も描いてない」という言葉に人柄が滲み出てるニダ。
優しげなタッチと色合いが持ち味の藤田らしい、優しい人柄だったんだなぁとしみじみ思いましたわ。
Mansikka様おはしお~!

> とても可哀想なエピソードニダなぁ。
> 兵隊さんも藤田も辛い時期を過ごしましたね。

戦時中は大きな流れの中で、皆それぞれ悲しいことばかりだったでしょうね。

> 最後の「将校は一人も描いてない」という言葉に人柄が滲み出てるニダ。
> 優しげなタッチと色合いが持ち味の藤田らしい、優しい人柄だったんだなぁとしみじみ思いましたわ。

兄や姉に可愛がられて育った末っ子なので、本当は優しいひとだったんでしょうけど、周囲と上手く合わせる「お調子者」として、嫌う人も多かったかもしれないです。


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