FC2ブログ
プロフィール

yuccalina

Author:yuccalina
自閉症の息子(16才)と、エンジニアの夫との3人暮らしのアラフィー主婦です。45才でヨガ指導者スクールを卒業し、現在地元で極々細やかな教室を開催。

一方、トランシルヴァニア(カロタセグ地方)の伝統刺繍、イーラーショシュのステッチを用いた雑貨『Yuccalina Erdő=ユッカリーナ・エルドゥ』の制作も行っています。

ミンネ・ギャラリーにて作品展示中。

ブログでは主にハンドメイド、ガーデニングに加え、10代から親しんできたロック音楽に、映画、本等について綴っています。

月別アーカイブ
リンク

ユッカリーナのヨガ的雑記帳


--/--/-- --:-- yuccalina

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2017/09/18 10:30 yuccalina

不定期便『哲子な部屋』その6~『沈黙』と『薔薇の名前』

今年マーティン・スコセッシ監督映画『沈黙』が、非常に興味深かったので、その後、遠藤周作の原作を読みました。インスタでちょこっと紹介しましたが、やはりこれはブログでないと文字数が足らんと思って先延ばししてたら、今度は読んだのを忘れてしまいそう、とか慌てて投稿することにしました。(画像をクリックするとインスタ投稿が見られます)



どうしても映像からの印象に引っ張られて、読んでいると「映画との答え合わせ」をしてしまってる感は否めないものの、主人公ロドリゴの印象は、かなり違っていました。それは、

読んでると、何だか一々言い訳がましい男に思えて、イライラする~~(`皿´)ノ

裏切りを繰り返すキチジローは、自分の卑しさを自覚してる分耐えられるのですが、ロドリゴも常に心が乱れていて、そのくせキチジローを毛嫌いしてる姿に、「もしや同類なんじゃないの?」と疑いつつ、読み進めてたら、最後に自ら

「あのキチジローと私とにどれだけの違いがあると言うのでしょう」

と出てきたので、やっぱりなー、と頷きました。

仏教(禅宗)においては、ブッダの存在を疑うのも修行のひとつであるそうですが、ロドリゴは神の存在を終始疑いつつ、最後に出会ったという本書は、遠藤周作がキリスト教徒とは言え、日本的な価値観が表出しているのかもしれません。

一方で、沢野(=フェレイラ)が日本人はデウスを大日に置き換えて理解したことを批判する下りには、

「お前らが低能だから理解出来んのだ」

という選民意識が出てる気が、しないでもありません。いや、どうなの?聖書をどう理解するか、ヨーロッパの中でも意見が色々あって、そのせいで戦争してきたくせに、

何を言う~~?

と村上ショージ風に腕を振り上げたくなるものだ。

ちなみに、右のパラマハンサ・ヨガナンダの『あるヨギの自叙伝』は『沈黙』の前に読了していましたので、キリスト教世界と東洋の価値観との差を、余計に強く感じてしまったかもしれませんぐ。

それと、これは本筋とは無関係なことですが、ロドリゴが農民たちの悲惨な状況を表すのに、

牛馬の如くこき使われて、

みたいな言葉を使ってるのは、西洋的なのかなと思いました。日本では農耕に牛や馬を使用してた歴史はありますが、私には、大切に飼育されたて印象の方が強いんですよね。

さて、神の存在を無条件に盲信させ、疑うことを許さない、聖書にちょっとでも都合の悪そうな書物は禁書にしよう、的内容の映画『薔薇の名前』は、『沈黙』を読み終えた後に見たので、かなり面白かったです。



ストーリーは中世のイタリアの僧院で起きた殺人事件の謎を解く、ミステリー仕立てではありますが、印象的なセリフが多数。

・信仰と狂言との差はわずかしかない
・疑問こそ信仰の敵

信仰に都合の悪い書物として隠されていたのは、アリストテレスの『詩学』で、”喜劇”に関する文に危険性があったから、

「俗悪な人間の滑稽さ中に真実を見出す
それが喜劇である
彼等の欠点もよしとせよ」

これって『沈黙』の中のキチジローにピッタリハマるんじゃないかしら?とか、見ながら頭に思い浮かびました。

笑いはカオスを生むからと、詩学を隠していたのが盲目の老僧ブルゴスのホルヘ。追求してきたバスカヴィルのウィリアム(ショーン・コネリー)に、死に際でこう語りました。

「笑いは恐れをなくす
恐れなくして信仰はなりたたぬ
悪魔へのおそれなくば
神はもはや必要とされぬ」

フランクルの『夜と霧』では、ナチスの強制収容所において、笑いが多くの人々を救った話が出てきましたし、現代では科学的にも、笑いが心身を鍛えることが証明されつつありますから、笑いを禁じてる宗教があるとは思えませんけど、絶対的な存在を定義して疑問を持たせない、ってのは、結構ありそうな気がしますです。

ちなみに、フランチェスコとかベネディクトとか、キリスト教派閥の違いは良く知らんのですが、言い争ってる内容が、

キリストが着ていた服は、彼の持ち物(=財産)なのかどうか、

とかね。マジですか?

どっちだってええやん!

と突っ込みながら見てました。何でも勘でも縛りつける教義は、疑問をもたせずにコントロールする為のものであるのだろうな、と逆に思い知ったのでありました。

と言ったところで、ここで一端この記事をアップしておきます。今後、加筆訂正がありましたら、随時更新する予定です。




スポンサーサイト
ご訪問ありがとうございます
最新記事
最新コメント
カテゴリ
検索フォーム
最新トラックバック
ユーザータグ
フリーエリア
RSSリンクの表示
Web page translation
QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。