プロフィール

yuccalina

Author:yuccalina
自閉症の息子(14才)と、エンジニアの夫との3人暮らしのアラフィー主婦です。45才でヨガ指導者スクールを卒業し、現在地元で極々細やかな教室を開催。

一方、トランシルヴァニア(カロタセグ地方)の伝統刺繍、イーラーショシュのステッチを用いた雑貨『Yuccalina Erdő=ユッカリーナ・エルドゥ』の制作も行っています。

ミンネ・ギャラリーにて作品展示中。

ブログでは主にハンドメイド、ガーデニングに加え、10代から親しんできたロック音楽に、映画、本等について綴っています。

月別アーカイブ
リンク

ユッカリーナのヨガ的雑記帳


2016/01/31 13:12 yuccalina

最初で最後の私のアイドルJulian Copeのこと~その(6)特製マイクスタンドの変遷とライヴ動画

このブログで一番ニッチなトピックであるジュリアン・コープのネタですが、いつにも増して下らない内容になることを、先にお断りしておきます。

はい、前回予告した通り、ジュリアンが一時期(推定1985~1989)使用していた、ド助平なスタンドマイクの件でございます。

初来日ではごく普通のものを使用してたジュリアンが、足元にステップを付けて、またスタンドに絡み付いたりぶら下がったり出来るように上部を曲げてカスタマイズしたもの。

これを最初に目にしたのは、シングル『World Shut Your Mouth』のプロモーションビデオでした。



このPVをピーター・バラカンさんがポッパーズMTVで、嬉しそうに紹介していたのを、私はとてもよく覚えています。「あのスタンドマイクは僕も欲しいぐらい」とか言ってたんですもん。

このバラカンさんの言葉をなぜ覚えていたのか、理由があります。実はジュリアンが初来日した時、ライヴインでの追加公演があったのですが、私は行けませんでした。しかし、当時のジュリアン・ファン仲間だったO君(故人)は見に行って、

「ノリノリのピーター・バラカンを見た!」

と私に教えてくれたんですね。その時はにわかに信じがたかったのですが、その後ポッパーズでの発言を聞いて、私はなるほど!と思った訳ですな。

で、YouTubeにあるライヴ映像をチェックしてみました。さっきのPVでは緑でしたが、87年、リッツ(ニューヨーク)でのライヴでは赤いのを使ってます。曲は『Sunspots』です。



『Trampolene』のPVでも同じ赤を使用してましたが、他に青もあったみたいで、写真が残っておりました。

julian35.jpg

クロスビート誌に載っていたグラビアです。

ところが、それが何気にバージョンアップしておったんだな、とは最近になって気が付いたんですわ。

ベスト盤DVDに収められていた『5 o'clock World』見てたら、あれっ?カーブの部分に繋ぎ目が無いじゃん、と。YouTubeに動画が無かったため、取りあえず画像で。

julian33.jpg
julian34.jpg

初期のやつは肌に触れたら引っ掛かりそうで、危なそうでしたが、こちらはカーブが滑らかになっております。間近で見ないと断言は出来ませんがが、1本のスティールを曲げて作ってる感じがしますね。

このスタンドマイクを使ってる画像が無いか、さらにYouTubeを漁ってみたら、ありますたわ。



この動画は88年スペインのテレビで放送されたものみたいです。

87年のアルバム『St. Julian』で稼いだお金で作ったんかにゃ?ちなみに『5 o'clock Wolrd』と同じアルバムの収録曲、『Charlotte Ann』と『China Doll』のPVでは、このマイクは使われておりませんぐ。

そして、90年代に入るとジュリアンはロックスターっぽいプレゼンテーションは一切しなくなり、ロン毛にチューリップハット→皮ジャンにこまわり君みたいな帽子とかの、異様なスタイルになり、このスタンドマイクが再び使われることはありませんでした。そういう刹那的な部分にも、ワタクシはふと愛情を感じてしまう訳です。

とか、どーでも良いことを一人思っている怪しい主婦のヨタ話にお付き合い頂き、ありがとうございますた。

次回はもちっとマトモな話にしたいです。

その(7)に続く


お読み頂きありがとうございました。
↓宜しかったらポチお願い致しますm(__)m

blogram投票ボタン

タグ: ジュリアン・コープ 80年代

テーマ:80年代の洋楽(new wave) - ジャンル:音楽

2016/01/14 09:08 yuccalina

最初で最後の私のアイドルJulian Copeのこと~その(5)ジュリアンは何しに日本へ?

このブログで一番ニッチな話題を提供してるシリーズです。書き始めた時は、古い話題から順番に進めていくつもりだったんですが、段々と思いつくままに、いい加減になって来ちゃいましたわ。で、今回も思いつきでジュリアンと日本との関わりにフォーカスしたいと思うんですが、その理由は、実を言うと、今年最初の投稿『新春2016はあけぼの印から』(記事はコチラ)と関係があります。

そこで紹介した日本の80年代インディーズの動画で、あけぼの印『毎日』とE.D.P.Sの『Death Composition』の動画主”thebrofessoroak545”さんが、日本人ではなかったからなんです。

私が何気に『毎日』へ日本語でコメントを入れたところ、英語で返事が返ってきた。そーか、日本人じゃないのか、それではと、私はいい加減な英語であれこれ質問してみたら、thebrofessoroak545さんはネットで日本の音楽を漁っているアメリカ男子23歳、学生、ニューオーリンズ在住、と判明。そこで、私はやはり問うてみた訳ですよ、

ジュリアン・コープの『Jap Rock Sampler』って読んだことあるのー?」

して、その返事は?

「読んだことあるけど、間違いが多いし彼の考えにはあまり同意出来ない。僕は既にこの本以上に沢山の日本のバンドを知っているので、役に立たないです」

でしたわ、トホホ。そりゃあねえ、このご時世、日本のバンドはYouTubeだけでも十分に色々聴けますからね。もう、情報として古すぎるのは分かります。そもそも間違いだらけで、奇書と呼ばれる代物ですもの(記事はコチラ)。日本語版は赤ペンで修正されてたら、きっと真っ赤になったでそう。でも、「情報が少ない時代に一生懸命勉強してたジュリアンが私には愛おしいのだ!」と思わず長文返事を変な英文で書いてしまっただよ。

とそこで、ジュリアンが何故に日本のロックコレクターとなり、『ジャップ・ロック・サンプラー』を書くに至ったのか、考えたみたくなった。ジュリアンと日本との関わりを、改めて見直してみようかなと思った次第。

先ずはファーストアルバム『World Shut Your Mouth』のジャケットから見てみまそーか?

julian18.jpg

WORLDの文字の中に国旗がデザインされてますね。左からアメリカ合衆国、ソビエト連邦(当時)、日本、西ドイツ(当時)、イギリスとなってることからしても、既に日本に興味があったのが見て取れます。イギリスからしたら旧敵国が2つも入ってるのもポイントでして、ジュリアンはドイツのロック、クラウト・ロックも好きで本を出してるんですよね。そこで、89年4月3度目の来日時のインタビュー(下記の画像がどこの雑誌か残念ながら不明)での発言が生きてくる。

julian32.jpg

Q: あなたは日本贔屓で有名ですが、いったいどこにそんなに魅かれるのですか?
A: 戦争でボロボロになりながら、みごとに立ち直った姿が素晴らしい。一歩間違えばそのままボロボロになってた可能性もあるはずからね。その過程の一部始終が俺を引き付けて離さない。


ジュリアンは1957年生まれですから、親が先の大戦を知ってる世代なのでしょう。そんな彼が、ドイツや日本のロックに興味を持っていたのは、かなり異質だったのかもしれません。下線部は『ジャップ・ロック・サンプラー』の文面にも良く表れておりますたわ。ま、誤解、思い込みによる部分が多いのが事実なのですがが。

私は以前ジョン・レノンとオノ・ヨーコの話で、60年代のイギリスで、国民的アイドルが旧敵国の日本人と結婚することが、どれだけ大変だったかと書きました。また、60年代のイギリスが舞台のドラマ『孤高の警部ジョージ・ジェントリー』では、敗戦国のドイツの方が羽振りが良いのが許せない、みたいな話が出てきたり、同じく英国ドラマ『主任刑事モース』では、シンガポールで日本の捕虜になりリンチされた父親の復讐で、日本人将校の息子が殺害される話を見た事があります。

ジョンとヨーコが結婚し、大バッシングを受けてた頃にジュリアン少年は10歳前後ですが、彼はヨーコに悪い印象は持ってなかったと思われます。本でもヨーコに関する記述はフェアに感じましたから。

で、1985年、日本でアルバムがヒットしてないのに、突然の初来日だった話は既にコチラでしましたが、日比谷野音では日本のルースターズがオープニングアクトを務め、彼等は後にジュリアンの『Land of Fear』という曲をレコーディングすることになります。実はルースターズ版(1988年のアルバム『Four Pieces』に収録)は聴いたことがなくて、今回YouTubeで探してみたんですが、残念ながら見つからず。ジュリアンのバージョンを貼っておきますね。



ジュリアンは1987年、2度目の来日時のインタヴューでも、「日本に来たことで自分は変わった。日本が自分にインスピレーションを与えてくれた」的発言を沢山しておりまして、ヒット作となったサードアルバム『St. Julian』も、あの来日なくしては有りえ無かった、くらいの勢いでした。一応、証拠のVTRも貼っておきますね。『ポッパーズMTV』でのインタヴュー。聞き手は今は亡きシリア・ポールさんです。



さて、先の記事では、見出しの部分に

日本はすごいよ、色んな点で俺を刺激してくれる

と書かれております。日本が好き過ぎてレコードも集め出した、と言っても不思議ではありませんぐ。で、先の記事で私が一番興味深かった、そして、とても的を射てると思った彼の発言がこちら。

西洋からいろんなものを吸収しながら、西洋化されてないところもすごいと思う。
外見的に西洋かもしれないが、内面的には程遠い。
和製英語とは、視覚的に英語を取り入れてデザイン化してしまってる。
ほとんど意味のない英語こそ、西洋化願望の象徴だが、俺はそれが大好きなんだ。
昔初めてそれを見た時、感激して歌詞をデザイン化しようとしてみた。


外国からの文化を日本独自の解釈でバランス良く取り入れる、と言うのは日本文化の成り立ちを良く理解してると言えなくもないんじゃなかろか?そして、外見的には西洋に倣ってても、西洋化されてないからこそ、日本のロックに魅かれたのかもしれませんね。

ちなみに2番目は一見批判されてると誤解されるかもしれせんが、誉め言葉みたいです。例えば衣食住などの見かけが西洋化してても、日本人の生真面目さ礼儀ただしさとか、内面的に西洋っほくない、ってことみたいです。

さて、ここで、和製英語にまつわる曲を紹介しましょう。『Jellypop Perky Jean』です。



前回紹介したジュリアンの自伝『RE-POSSESSED』には、こんな写真が載ってるんですが、

julian31.jpg
julian23.jpg

来日した時に買ったヘアジェル、パーキージーンです。曲が収録されてるアルバム『Droolian』は1990年発表ですから、初来日(85年)か2度目(87年)の時でしょうね。パーキージーンは80年代に登場した資生堂のコスメブランドで、広告イラストを描いてたのが、あのダギー・フィールズ!はい、シド・バレットと一時期同居してた、イギリスの画家ですよ。BBCの『シド・バレット・ストーリー』でもインタビューに答えてましたっけ。YouTubeで当時のCMを探してみました。平面的でカラフル&ポップなこの絵を覚えてますでしょうか?





画像が荒くて確認が難しいのですが、2本目の動画で左に立ってる男性が、ダギー・フィールズご本人ではないかと思いますです。こうしてみると、シド・バレットを敬愛するジュリアンがパーキージーンに目を止めた、ってのも何か因縁めいてて良いですわね。

で、このヘアジェルを見てジュリアンが歌詞をデザイン化したこの『Jelly Pop Perky Jean』は、日本では私のような一部の物好きしか知らない曲ですけど、その後いつの間にやら、クール・ジャパンだの、カワイイと言う言葉が世界に広まったりして、デザイン化された日本語Tシャツを着た外国人が日本を闊歩する時代となった。この逆転現象は興味深いです。しかし、その一方でヲタク語やら、女子高生語やらと、日本人による日本語のデザイン化は、言葉の乱れと社会問題化してるのは、皮肉なもんですわ。

ともあれ、ネイディヴからはとかく批判されがちだった和製英語、カタカナ英語に価値を見出だした、と言う点でも当時のジュリアンの発言は画期的だったんだなー、と再確認した私でありますた。

とか、タイトルと内容が微妙にズレてしまいますたが最後にオマケ。Jelly Popの動画探してる時に、こんなの見つけちゃったよ。Sean's Showと言うイギリスのシチュエーションコメディ番組での一コマ。主人公ショーンがジュリアンのモノマネしとるの。



こんな番組があったとわね~!早速wikiで調べてみた。なになに、

ショーンはスミスとモリッシーを愛していて、エルヴィス・プレスリーの化身である蜘蛛と会話する。
神様とサミュエル・ベケットから「あの靴下、まだ乾いてないぞ」との留守電メッセージが入る。

って、何か凄く面白そうじゃないっすか?番組は1992年4月~1993年12月に放送されたそうですから、ジュリアンがあのドスケベな特製スタンドマイクを使ってた時代(推定で1986~1989)より後ですな。90年代のジュリアンはモヒカンにしたりして、化けモノ化しつつありましたからね。しかし、お笑いのネタになるくらいですから、ジュリアンのあのスタンドマイク&アクションは、それなりに知られてたってことですね。

これ見てたら、また一つ別のジュリアンネタが思い付いちゃったんで、その(6)は結構すぐに投稿出来るであろう。
(続)


お読み頂きありがとうございました。
↓良かったらポチして頂けると嬉しいですm(__)m

blogram投票ボタン

タグ: ジュリアン・コープ 80年代 イギリス

テーマ:80年代の洋楽(new wave) - ジャンル:音楽

2015/08/07 00:15 yuccalina

『宝島』の思い出~パンク・ドラゴンTシャツといしかわじゅん先生への懺悔

80年代大変お世話になった『月刊宝島』休刊ニュースに寄せて、思い出話を書こうと思います。先日、上田義彦写真展の話(コチラ)で出てきた、約30年振りに再会した学生時代の知人が、宝島と関わりのある人だったこともあり、タイミングの妙を感じてしまいました。

知人のS君は同い年の当時大学生で、宝島でアルバイトをしていたんです。一方の私は、99パーが聖子ちゃんカットでヴィトンのバッグを持ってるよーな、超ツマンナイ短大に通いながら、某サークル(こちらについてもいずれ書きたいです)でロックのミニコミを作っていた、ツンツン頭に黒のロングコート(エコー&ザ・バニーメン系)を着たニューウェイヴ女子でした。他に理由が考えられないので、多分S君は私が作ってたミニコミを見て、面白いと思ってくれたのでしょう。

ある時、
「宝島で何か書いてみない?」
と、私を誘ってくれたのです。S君の後を着いて、四谷の宝島編集部に足を踏み入れたのは、確か19歳の夏だったと思います。そこで、編集の渡辺祐(たすく)さんを紹介され、開口一番、
「で、どんなネタ持ってるの?」
と尋ねられた私は、思わず
「へっ?」
と二の句が継げなくなりました。今にしてみれば、自分が全く世間知らずで、浅はかだったと分かるのですが、私は自分の好きなアーティストのレヴューとか好きに書かせてもらえるんか?とかなりイケ図々しいことしか考えていませんでした。どこの馬の骨とも分からない10代のコムスメに、好き勝手やらせてくれる程、世間は甘くありません。要するに、渡辺さんの「どんなネタ?」とは、自分なりに「これが今面白い、来てる」と思うものをプレゼンし、編集部の人がOKだったら取材してきて、書いたものが面白ければ採用、と言う手順の第一歩だったのです。

しかし、答えに窮していた私に、渡辺さんは親切にも、
「じゃあ、これについて調べて、書いてみて」
と、課題を与えてくださいました。どこに取材先するかも教えてくれて、まあ、ほぼお膳立てが出来てる感じです。私は恐る恐る3ヵ所程に電話をかけ、自分なりの考えも入れつつ、宝島の200字詰原稿用紙で3~4枚にまとめました。その私の文章は、多少の訂正・加筆があったものの、ほぼ原形をとどめて雑誌に掲載され、後に原稿料として2000~3000円程度、頂いたと記憶しています。名前も苗字だけですが記載されました。

それでも、私は満足から程遠かった。当時は友人への電話でさえ緊張していた人見知りな私が、全く見ず知らずのところへ電話して話を聞いた、それだけでも、今なら自分を褒めてあげられるのですが、当時は尖がってましたからね。気が弱いくせに、自意識過剰だったのでしょう。予め材料が揃ってて、説明書通りに作るキットみたいで、やったった感が全く無かったとでも言いましょうか。ですから、雑誌掲載については、家族にも友人にも、誰にも教えませんでした。絵が大好きだった小学生時代、たとえ表彰された絵でも、気に入らなかったら捨ててしまうような子供でしたから、当然ともいえますが。

そんなこんなでモヤモヤしていた私でしたが、その後直ぐにリベンジのチャンスが訪れました。ある日地元(当時住んでいたのは東京の東端の町)の洋品店I屋で、あるTシャツを見つけたのでした。

そうです。記事のタイトルにある、パンクドラゴン。

PUNK DRAGON (パンクドラゴン) ‐ 商品情報 Amazon.co.jp
punkdragon.jpg

いしかわじゅん先生は当時宝島で『パンクドラゴン』という漫画を連載していました。残念ながらTシャツの実物は消失してしまいましたが、今でもよく覚えています。白地に赤一色でプリントされたパンクドラゴンは、スライスされたスイカを片手にルンルン歩いているような構図で、PUNK DRAGONの英字もしっかりプリントされていました。

「これはっ!」
と私はすかさず購入。漫画のファンだったから、というのもありますが、
「もしやこれはネタになるのでは?」
と頭を過ぎったのは言うまでもありません。それでも、直接宝島に持っていく勇気はなくて、先ずはS君に見せることにしました。すると数日後、
「面白そうだから、売ってた店に取材してきて」
との連絡が。

「ハイッ!」
心の中で小さくガッツポーズしました。
そのまた数日後、まだ暑さが厳しい日でしたが、「このネタ、モノにするぞー!」と洋品店I屋に向かうユッカリーナ19歳の、足取りは軽く意気揚々。しかし、その意気込が直ぐに砕け散るとは、知る由もありませんでした。私はパンクドラゴンのTシャツを手に、結構ハキハキと店員に尋ねました。
「雑誌宝島の者ですが、このTシャツのことで、お話を聞きたいのですが」
I屋は衣料品と服地、手芸用品を販売する2階建ての店で、ちょっとしたスーパーマーケットの広さでしたから、2階のバックヤードにちゃんとした事務所スペースがあり、私はそこへ通されました。そこで再び
「雑誌宝島の者です。このTシャツなんですけど、パンクドラゴンってウチで連載してる漫画なんですけどね」
と若干偉そう言うと、一瞬にして従業員達の顔色が変ったのです。冷房のきいた事務所が本当に凍りついた、とでも言いましょうか。私の一言で怯えるような表情に変わった人々を前にし、私もそこで思考停止してしまったのです。

「ウチは知らずに仕入れてました。申し訳ないです。」
と責任者らしき方が頭を下げたのを最後に、自分がその後何を言ったのかよく覚えていません。只々、自分の一言への反応を見て、逆に怖気づいてしまった。それ以上なにも言えなくなってしまった。そして、重い足取りで帰宅したことしか、もう記憶にないのです。

しかし、その後のことは結構よく覚えているんです。つまり、不正な商品について追求出来た筈なのに、自分が勝手に止めてしまったことへの罪悪感だけが残ってしまいました。何故何も聞かずに帰ってしまったのか。多分、真相を追求しようと言う強い意志もなく、上手いこと書いてやるぞと言うだけの、浮わついた気持ちしかなかったから、簡単に尻込みしてしまったのでしょう。仕入れ先なり、製造元なり聞けば、I屋の人はきっと教えてくれた筈です。いや、今思えば、衣料品って大抵内側に、製造元の名前と連絡先の入ったタグがあった筈だから、きっと調べられたろうな。もしくは、S君か渡辺さんに相談してたら、何かアドバイスしてもらえたかもしれない。でも、一度引っ込めてから再び聞きに行く勇気もなく、ビビって何も聞かずにトンボ返りしてしまったダメな自分を、S君や渡辺さんに知られたくなかったと。

と言う訳で、再び落ち込んでいた私に、後日追い打ちをかけたのが、宝島に掲載された『パンクドラゴン』で、作品中

「パンクドラゴンのTシャツ作って売ってるやつがいるらしいな、出てこい!」

みたいなセリフを見つけた私は、心中穏やかでありませんでした。

「いしかわじゅん先生、怒ってるよおおーー」

多分編集部の人が「パンクドラゴンの海賊版Tシャツが出回ってるらしい」と先生に伝えてたのかもしれませんね。要するに19歳のコムスメがちょっとした犯罪の芽を、勝手に摘んでしまったんです。

あああー、ごめんなさい、ごめんなさい、いしかわじゅん先生ごめんなさーーい!

と思いながらも、私はその後沈黙してしまいました。宝島編集部にもS君にも連絡を取らずフェイドアウトしてしまったのです。

、、、ざっとこれで3ヵ月間くらいの出来事なんですが、S君との再会と宝島休刊を前に、私の記憶の引き出しから、次々と出てきたのでした。

まあ、いしかわ先生がマジで怒ってて、裁判沙汰にしたろと思ってたら、きっと編集部から私に催促があった筈、とか思って、ずっと自分を納得させていたんですが、ここはやはりきちんと謝罪しておきたい。ゆえに、こうしてブログに書くことにしました。

いしかわじゅん先生、30数年前パンクドラゴンTシャツを追求せず、トンズラしてしまったのは私です。
本当に申し訳ありませんでした。
ここに、謹んでお詫び申し上げます。


とか書いたところで、勿論本人に届くとは思ってませんけど、私なりに誠心誠意を尽くしたかったんです。そして、あの頃に比べたら、私もちょっとのことではビビらなくなったし、不正行為や法律の知識に乏しかったからというのも、経験を積んでマシにはなったと思います。過去のあやまちは、自分がちょっとでもマトモな人間になることで償って行くしかないと思っております。

という訳で、一読者としては、毎月楽しい話題に笑い、ワクワクして読んだ記憶しかない宝島なのですが、ワタクシにはこうしたちょっとホロ苦い、一夏の思い出があったりするのです。ちなみに、80年代の終わりには既に読まなくなってしまったので、その後の雑誌の変遷は全く知りませんでしたわ。90年代には、購読する音楽雑誌もロッキング・オンからミュージックマガジンへ。89年に転職した先が海外プロジェクトを持つ理系の会社だったことも影響してか、私の音楽の趣向もロックからワールドミュージックへと向かったのでした。そこで、東欧やロマ音楽と出合い、東南アジアにも触れ、インド映画にハマったりして行った訳です。

ところで、約30年振りに会ったS君は、編集者として独立し、相変わらずバリバリ働いているようで、とても嬉しかったです。学生時代から既に自分のやりたいことが分っていたような、フィギュアスケーターに例えると(って変ですか?)、まっちーこと町田樹、「ティムシェル=自分の道は自分で切り開く」的意志の強さを感じる人物でしたので、立派になった姿は想像通りだと言えます。あ、でも顔とか喋り方は全然違いますからね。ホントの事を言うと、宝島で私がフェイドアウトした後、彼とは2つ目の就職先、某アパレル会社にいた時に、一度だけ会っていました。しかし、その時に何を話したのか、殆ど覚えていなくて、唯一記憶にあるのは、「S君が羨ましくて嫉妬してた自分」だけでした。既にメジャーな雑誌の編集部にいたS君が、只々羨ましかった。みうらじゅん師の『比較三原則』をまだ知らなかった20代ユッカリーナの暗黒時代です。

それが、30年の時を経て、今ではそんな自分を懐かしめるようになりましたよ。基本考えがフワフワしてて、意志が弱い自分ですが、ちょっとは『自分なくし』が出来てきてるのかな?と確認できた再会でありました。



お読み頂きありがとうございました。
↓宜しかったらポチお願い致しますm(__)m

blogram投票ボタン

タグ: 80年代

テーマ:雑誌 - ジャンル:本・雑誌

2015/08/03 09:15 yuccalina

最初で最後の私のアイドルJulian Copeのこと~その(2)初来日は突然に~

18歳で出会って以来、20代の半ばまで夢中だったワタクシの青春のアイドル、Julian Copeを語るシリーズの2回目です。私は好きになったアーティストが暫くしたら来日、とタイミングが良かった経験が結構多い。エコー&ザ・バニーメンに始まり、OMD、キュアー、ジ・アイシクル・ワークス、トム・ヴァ―レイン、ジョニー・サンダース、ジョン・ケイル、レニー・ケイ、ジョナサン・リッチマン、アンビシャス・ラヴァーズ、ゼイ・マイト・ビー・ジャイアンツ、エドウィン・コリンズ等々。中でも一番驚いたのが1989年のヨ・ラ・テンゴかな?当時の日本では余りにもマイナーでしたから。で、ジュリアンはその次くらいに、初来日を知ってビックリしました。以前ちょっと書きましたけど、日本でレコードが出てそこそこ売れたからの来日では無かったと記憶しています。私は既に輸入盤専門になってたので、詳しい発売日は分かりませんけど、

本国イギリスで1984年に出た2枚のソロアルバムは、

ファーストの『World Shut Your Mouth』と
julian18.jpg

セカンド『Fried』共に
julian17.jpg

85年の来日が決まった頃に出た様な気がするのです。この2枚のアルバムに関しては、『SAMARQAND淫美ブログ』のレヴューで、その時代的意義を、後になって認識したものです。

ピンクフロイドのようなビート感のあるサイケ、糞食らえと叫ぶパンクの時代にあって、ポップである事は軟弱な事であり、批判の対象でありました。その時代にためらいも無くポップな旋律を口ずさむJulian Copeは逆にアナーキーでさえあります。
World Shut Your Mouth/Julian Cope 『SAMARQAND淫美ブログ』より

このファーストとセカンドの2枚の作品で、当時のパンク、テクノ、ニューウェイヴの時代に異質なセンセーションを投げかけました。
Fried/Julian Cope 『SAMARQAND淫美ブログ』より



そんな状態でコンサートを主催したスマッシュ・コーポレーションは、当時まだ出来たばかりの会社だったのではないでしょうか?「スマッシュって何?全然聞いたことない名前だけど」「大丈夫かなー?」と友人と一緒に怪しんでいたものです。

julian22.jpg

スマッシュも今では大手のプロモーターみたいですが、80年代半ば、海外アーティストのコンサートと言えば、殆どがウドー音楽事務所の独占状態でした。時々、Van Productionのもありましたけど。

84年のエコー&ザ・バニーメンとOMDはVan Productionが主催でした。

julian21.jpg

座席番号がスタンプ!何とアナログな半券でしょうか。確か84年の4月くらいに、チケットぴあが出来てコンピュータ化されたと記憶します。それ以降チケットの購入はしやすくなったものの、全て同じフォーマットで味気無いものになってしまったんですね。

と言ったところで本題です。今回は85年7月の初来日公演を前に、雑誌で紹介された記事を。

先ずは、今は亡き情報誌シティロード。ワタクシはぴあよりもシティロード派でごさいましたのよ。来日直前とあるので、85年7月号でしょうか。

julian8_20150725133708c79.jpg

名前がジョリアンと、思いっ切り間違ってますががっ!

julian9_20150725133710e7a.jpg

来日時にあちこちで質問されてた、アルバムタイトル『Fried』の意味を、既に語ってたんですね!まー、ジュリアンをイカレてると言った女房のドリアン(自称アナーキスト)も、化粧控えめのスージー・スーみたいなルックスで、結構ブッ飛んだ方に見えましたけどねー。

で、UK盤レコードの『Fried』には、ジュリアン亀のポスターが中に入ってて、当時19か20歳だったユッカリーナは、自室の壁に飾っておりましたのよ。家族はさぞや「ウチの娘の頭もFriedになっちまった」と思っていたことでしょう。

んで、最近YouTubeで見つけちゃったんですけど、このジャケット撮影時に撮ったらしきPVがありましたわ。



30年前に見たくても見れなかったPVですわ、ウルルル。『Laughing Boy』は元よりローファイなアルバムの中でも、かなり気怠い雰囲気の曲です。シド・バレットの曲に『カメに捧ぐ歌Terrapin』というのがあった為、この頃から類似性が指摘されておりましたな。そして、その証拠とも言えるのがお次の記事、1985年宝島9月号。

julian10_20150725133712bb5.jpg

来日後に出た号ですが、インタヴューは来日前にロンドンで行ったと書かれています。好きな詩人としてシド・バレットの名前がっ!そして、もう1つ私が注目したのが、ソ連の詩人メトゥラナル・ヴァヴィンの話なんです。

Q: 言葉で表現できないことを音楽で表現しようとしたことはある?

J: いや、言葉はちゃんと表現できるんだ。いつかメトゥラナル・ヴァヴィンというソ連の詩人の詩を読んだことがある。彼の詩は一度仏語訳され、それから英訳され、と二度の翻訳を経ていたけど、その風変りな作風と、独特のリズムは失われていなかった。オリジナルの意味が少しずつ失われても、言葉の力強い響きは残っている。これはすごいことだ。

Q: 言葉の可能性に対してポジティヴね。

J: 僕は言葉の可能性を信じている。僕自身詩を書く時は、自分の考えを純粋に言葉に置き換え、翻訳とか時代の変化とか、表面上の言葉の風化にたえるものにしたいと思う。

Q: 詩は沢山読むの?

J: 数えきれないほど。好きな詩人は20世紀で言えば、T・S・エリオット、そしてシド・バレット


メトゥラナル・ヴァヴィンMetranil Vavinという曲は、ティアードロップ・エクプローズ解散から8年後にリリースされた最後のアルバム『Everybody Wants to Shag...』にも収めれていましたが、『World Shut Your Mouth』で録り直しています。



ソ連の詩人というのは、いかにも左寄りな英国アーティストが好みそうな雰囲気ではありますが、後に自分がソ連関係の仕事についたのにも妙な縁を感じます。どこかでジュリアンの人生とシンクロしてたのか?と想像するのは楽しいですが、実を言うとこの詩人は実在してないみたいなんです。

私が転職してソ連関係のお仕事についたのが1989年で、ソ連崩壊の1991年まで続けておりました。当時会社のロシア語翻訳室には5~6人の通訳さんがいましたが、この名の詩人を知ってる人は、一人もいなかったよなあ。

なんつーことを思い出しつつ、ググってみたら、こんなのが出てきたのです。

Tiefer, tiefer, - Metranil dreams of becoming a neon.

英語しかなくてすみませんが、Metranil Vavinはアメリカのクレイトン・エシュルマン(Clayton Eshleman)が創作した人物で、ロシア語→フランス語→英語の翻訳も、エシュルマンが設定しただけではないか?という話。

うわあー、また出たのか?ジュリアンの過剰な思い込み力が『ジャップ・ロック・サンプラー』という奇書を生んだ訳ですが、果たしてジュリアンはロシア語版と、フランス語版があるのを、ちゃんと確認してたのかどうか。エシュルマンの文章を読んだだけだったのでは?このネット時代で、ロシア・フランス語版ともに引っかからないのは、やはりメトゥルナル・ヴァヴィンはエシュルマンが作りだした詩人説が濃厚と言えましょう。まあ、これも昔からジュリアンが異文化好きなヲタクだった証明でもあり、中々興味深くもあるのですが。

ところで、この宝島の記事に使われてる写真は、2枚組7インチ(17cm)シングル『Sunspots』のジャケットに使われていたものですね。

Julian_Cope_-_Sunspots.jpg

向きが逆になってるので、どちらがネガかポジか?イマイチよく分かりませんが、ワタクシが注目したのは、この左側と上下に写ってる、歪んだジュリアンのお顔。

これはっ?4枚目の『My Nation Underground』(1989年)の後、1990年にリリースされた『Skellington』のジャケ写と同じではありませんか?

Skellington.jpg

『Skellington』を入手した当時は、友人と「ジュリアンやばいんじゃない?お薬でおかしくなっちゃったの?」と心配していたのですが、私は『Sunspots EP』を持っていながら、なじぇに当時気が付かなかったのか?『Fried』の頃に、既に出来てたんですよね。

『Fried』の亀ジャケにしても、こんな変な俺に、君はついてこれるかな?と試してる雰囲気がありましたし、ジュリアンはよく「イギリス人は見た目が紳士でも中身は醜悪そのもの」と言ってましたので、一連のジャケットが、その醜悪さをイメージしてる可能性は十分だったのでしょう。ただ、この『Skellington』は、『St. Julian』『My Nation Underground』と、結構カッコイイ系ジャケが続いた後に来たので、余計に衝撃だったのを覚えております。

でも、今聴き直してみれば、結構良い曲が揃ってるなと感じました。





この顔が並んでるのを見るのは、ちとシンドイですが、『Fried』よりもさらにシド・バレットな香りが漂っていますなあ。何だかんだ言って、シドの『Madcap Laughs』のジャケットや内ジャケ写真も、影響を与えてそうな気がします。

と言ったところで、次回は過去の雑誌インタヴュー記事から離れ、ジュリアン・コープ×シド・バレットで何か書いてみようかと思っています。

その(3)へ続く。


お読み頂きありがとうございました。
↓宜しかったらポチお願い致しますm(__)m

blogram投票ボタン

タグ: ジュリアン・コープ 80年代

テーマ:サイケデリック - ジャンル:音楽

2015/06/26 08:20 yuccalina

最初で最後の私のアイドルJulian Copeのこと~その(1)Teardrop ExplodesのラストEPからファーストソロまで

ジュリアン・コープJulian Copeについては、書きたいことが山ほど有って、どこから手を着けたら良いのやら、ずっと迷っていました。しかし、ある日書類を整理してた時に、彼のインタビューやグラビアを切り抜いた束を発見して、私はこう確信したのです。

ジュリアン・コープこそ、最初で最後の私のアイドルなのだと。

<発掘された切り抜きの一部>
julian12.jpg
julian11.jpg

小学6年生でロックと出会って以来、ベイ・シティ・ローラーズだの、ピーター・フランプトンだの好きだったことは、チラホラ書いたことがありますが、どれも長続きはせず、影響力が強かったとは言えません。また、現在はブルースに浸りつつあるワタクシですが、アイドルを追う感覚とは別物。切り抜き記事を読み返しつつ、実感しました。やはりジュリアン・コープは別格なんです。

来日時(85、87、89年)は東京公演の殆どに足を運び、

ジュリア~ン!

と黄色い声援を送っては、

Juliaaaan!

と、本人が真似するように返してきた(=全ての女子が自分にだけ言ってくれたと思ってた筈)のも、チケット争奪の為、電話をかけまくったことすら、青春の一ページ。あんな事はもう二度とないでしょう。また、彼の影響で、The Vogues(5o'clock World), Shadows of the Knight(Someone Like Me), Peru Ubu(Non Alignment Pact)を知り、13th Floor ElevatorsはTelevision経由で既に知ってたけど、I'v Got Levitationをカバーしてたっけ、等々のアーティスト達にも開眼。そうそう、スコット・ウォーカーもジュリアンの影響だったし~

ジュリアンを聴きなおそうと思ったキッカケは、4年前に紹介した(コチラ)著書『ジャップ・ロック・サンプラー』でした。その時全然知らなかった布施明のLOVE LIVE LIFE +1を聴いたり、その影響力は衰えていませんでした。そこで、2000年の『20マザーズ』を最後に、ジュリアンのアルバムを全く聴いてなかったことに気が付き、ネット検索をしてみた。すると、その後もジュリアンは意欲的にアルバムを発表し続けていた様で、たどり着いたのがSAMARQAND淫美ブログでした。何と、殆どのアルバムが紹介されていたんです。

その一方で、chocoberryさんのブログ『私的名盤探究』では、ジュリアンのバンド、ティアドロップ・エクスプローズ(以下TDEと略)のファースト『キリマンジャロ』が紹介されていて(コチラ)、何と1000円(税別)というお安い日本盤が出てるというではありませんかっ!TDEはセカンドも同様の廉価盤シリーズに入っている模様。30年前、渋谷や新宿の輸入レコード店を巡って、ちょっと高めの中古を手に入れて大喜びしていたのものですが、いやー、良い世の中になりましたね。

と、しみじみしたところで、私は何を書こうか?と考えてみた。アルバムレビューならSAMARQANDさんがとても丁寧に書いてらっさるから、それで十分。今後アルバムレビューのリンクも、SAMARQANDさんから許可を頂いところです。

そこで、ワタクシ考えました。この残された切り抜きにあるジュリアンの言葉を紹介しながら、私にとってのジュリアン・コープが何なのかを、探って行く所存でございます。既に好評?連載中の『シド・バレットは不思議王子』シリーズと同じノリで行きまっせ~!

と、長~い前置きでしたが、本題はここから。

最初に聴いたレコードは1983年の秋、TDE解散後リリースされたラストEP『You Disappear From View』で、買ったのは今は亡きお茶の水CISCOです。

<『You Disappear from View』12”のジャケット>
julian4.jpg

<こちらは7インチのジャケットでB面はSuffocate>
julian5.jpg

それより遡り、TDE及びジュリアン・コープの名前を知ったのは、ZIG ZAG EASTと言う雑誌から。当時好きだったエコー&ザ・バニーメンと関係があったので、興味を抱いたと。その結果、ジュリアンへの想いはエコバニへのそれを軽く越えていったのです。このEPの曲は、ジュリアンのソロがそこそこ売れた後にリリースされたTDEの未発表アルバム『Everybody Wants To Shag...』で聴けますので、ここにSAMARQANDさんのレビューも貼っておきますね。

Everybody Wants to Shag.../Teardrop Explodes 「SAMARQAND淫美ブログ』より
julian13.jpg



聴いて最初に思ったのは、エコバニよりも全然ポップ!そして、ホーンの使い方がカッコ良い!ま、ホーンが入ってなくても、十分カッコ良い曲なのは、次のアコースティック版を聴いても明らかで、



てか、今ではアコースティックの方が好きかもしれません。良い曲は、派手なアレンジがなくても十分。要するにポップセンスがあるんでしょうね。ジュリアンの低い声もヴォーカルスタイルも、凄く魅力的でしたが、何よりも、誰か他人からのオススメでなく、自分から興味を持ってレコードを探して買ってみた。これが一番興奮した要因だったのかもしれませんね。以降、輸入盤屋で知らないアーティストをジャケ買いすることが多くなった。そう言う意味でも、かなり記念的レコードです。

その後は前述の如く、輸入レコード店を巡って、TDEの2枚のアルバムを入手し、夢中になって聴きまくった。だのに、グループは解散していて、日本での情報は相変わらず少ない。ネットもYouTubeもない時代は、輸入レコード店だけが頼りでした。しかし、83年の暮れにはソロになってから初のシングル『Sunshine Playroom』。開けて84年には、ファーストソロのイギリス盤が日本の輸入レコード店にも並び、当然ワタクシも馴染みの御茶ノ水CISCOで購入し聴き入りました。

julian15.jpg

ジャケットがモロ、スコット・ウォーカーや~!と当時は全く気がつかず、スコットを知ったのも後です。また、『Sunshine Playroom』のPVは大分あとになって、新宿の海賊ビデオ店AでPALからダビングしたテープを買って見ました。YouTubeにアップされてるのは、音と映像が微妙にズレてますが、



このドラマ仕立てで小芝居をするところが、いかにも80年代風ですね。で、その後ある音楽雑誌に、画期的なインタヴュー記事が登場したのです。

julian7.jpg

それは、何と音楽専科!なじぇに画期的かと言うと、国内盤レコードが出てないアーティストのインタヴューに、結構なページを割いていたから。先述のZIG ZAG EASTは本国イギリスのZIGZAGを翻訳したものであり、一部の輸入レコード店でしか入手出来ない、とてもマイナーな雑誌でした。一方の音楽専科は普通の書店にも置いてあるものであり、Fool's MateやDOLLみたいに、積極的に輸入盤レコードを紹介する雑誌でもなかった。因みにクロスビートの創刊(1988年)までは、あと4年も待たなければならなかったんですね。

julian6.jpg

で、本文によると、ファーストソロ『World Shut Your Mouth』が間もなくリリースとありましたから、逆算して、1984年の1~3月号あたりではないかと思います。インタヴュアーの黒沢美津子さんは以前音楽専科の編集長をされていた方で、当時はロンドン在住で特派員的な仕事をしてた模様。ジュリアンの日本盤レコードが出たのは確か初来日(1985年7月)の直前か後でしたから、それより1年早く「ジュリアン・コープこれから来るんじゃね?」と予測してたのなら、音楽専科は実に天晴だったと思うのです。SAMARQANDさんのレビューにもある通り、当時としてはかなり斬新な音作りをしていたTDEが、まだ日本で紹介されてない頃から注目し、ジュリアンのソロデビューを待ってたのかも?と思うと、かなり嬉しいんですわ。

当時音楽専科が積極的に盛り上げてたデュラン・デュランとかカルチャー・クラブからは、ジュリアンは程遠い存在だったでしょうね。私はその辺りは殆どハマってなかったんですが、8ビートギャグが好きで、よく立ち読みしていた。そのお蔭で、記事にも気が付いて、購入出来てたんですね。因みに切り抜き記事の最終ページの裏側がこんな感じでしたよ。

julian14.jpg

、、、どちらも故人ですね、、、。ミック・カーン(左)のいたジャパンや、右のゲイリー・ムーアは8ビートギャグによく登場してたキャラでした。それにしてもこのツアー、凄いですよね。30年前で9日間43万円ですか。どんなアーティストと交流したんでしょうかね?やっぱデュラン・デュランは外さなかったかな?

と、話が外れてしまいましたが、最後に、このインタビューで私が注目したジュリアンの言葉をいくつか書き出しておきたいと思います。

(ファーストアルバム『World Shut Your Mouth』が出るまでの)この2年間はハッピーだった。ティアドロップ時代は、音楽的には幸せだったが、自分の役目にはハッピーじゃなかった。

自分の価値観では、間違った方向に行ってたし、落着けなかった。僕はコントロールがきかないタイプだから、(TDEの頃)成功するのはちょっと怖れていた。

(曲作りについて)殆どが自分についての歌。自分に対抗するもの、抱えている問題など、自分に関係あることしか書けない。

(『World Shut Your Mouth』は)とても英国的なアルバム。大英帝国をつっついてる感じだが、決して退廃を歌っていないし、楽観性とモラルがある。

本当にいい音楽というのは、カテゴリーに収まらないもの。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドはサイケデリアと言うよりも、混乱の中の音、ずっとずっと凄い音。

社会は一つの狂気であり、そのワクに対して戦って行くとこが大事。答えを求めてはいないが、常に何でこうなるのかを問い続けていくことが必要。

他人が自分をどう思うか全く気にしなくなった。他人の思い通りに固まって、ビジネスに巻き込まれたくない。

僕は昔のロックンローラーじゃないから、早く死にたいなんて思わない。

僕の中に沢山の悪魔は住んでいるが、善を信じているし、自分の悪を押さえつけられる人間。例え心の中に悪魔が潜んでいても、善を強く信じているから、こうして生きていける。


TDE時代の自分の役割が嫌だったというのは、アイドル的存在だったことなんでしょうか?当時は実感出来ませんでしたが、今ではYouTubeでTDEの動画が沢山見られます。トップ・オブ・ザ・ポップスでの口パクとかは、セックス・ピストルズやザ・ジャムもやってましたけどね。



でも、『Treason』はやっぱり良い曲ですわ~!

で、社会という狂気とか、最後の善と悪の話なんかは、後のアルバム『St. Julian』や『My Nation Underground』のコンセプトになっていそうで、非常に興味深いです。そして、ヴェルヴェッツを「混乱の音」と表現しているのは、その善悪の話と繋がっていると思います。ジュリアンは常に、相反するものがせめぎ合って混乱した状態を良しとするところがあって、ヴェルヴェッツは勿論のこと、好きなアーティストとして上げいている、シド・バレット、マーク・アーモンドなども、同じ意味で好んでいたような気がします。物事の表と裏を常に意識しながら、そのバランスを保とうともがいているのが好きなのかも?

とここで、ハッと気が付いたんですね。私がジュリアンに魅かれていた理由が、今ハッキリと分かってきました。あの時代、私のアイドルが何故ポール・ウェラーでもなく、ボノでもなく、ジュリアンだったのか。彼は己の不安定を認識しつつ、常にバランスを取ろうともがく自分を表に出すのをいとわない。私はその姿に共感していたのでしょう。そして、ジュリアンが後に日本や東洋思想に興味を抱いたのも至極当然な気がしたのでした。

実のところ、私は91年の来日公演すら行ってないし、90年代にアイランドレコードを止めて以降のジュリアンは、殆ど追いかけていませんでした。それから『ジャップロックサンプラー』で再会するまでの約20年を、これから少しずつ埋めていこうと思っています。ジュリアンの公式サイトHead Heritageも、少しずつ覗いている状態ですが、heritage=伝承というコンセプトが、実は私が日頃生活の中で意識してるものであったり、彼がヴェジタリアンで瞑想を行っているらしいことも、ヨガを学ぶ私にとっては、知らない間に共有してる価値観があったのかもしれない、と不思議な感覚がありました。現在の彼の活動を受け止める為にも、始まりの80年代から遡ってみたくなった訳です。

という訳で、次回は85年の初来日直前のインタヴューを紹介するつもりです。

その(2)へつづく


お読み頂きありがとうございました。
↓良ろしかったらポチお願い致しますm(__)m

blogram投票ボタン

タグ: ジュリアン・コープ 80年代 イギリス

テーマ:80年代の洋楽(new wave) - ジャンル:音楽

ご訪問ありがとうございます
最新記事
最新コメント
カテゴリ
検索フォーム
最新トラックバック
ユーザータグ
フリーエリア
RSSリンクの表示
Web page translation
QRコード
QR